イニシエーション/トリニティ/フラクタル

イニシエーション(初回生産限定盤)(Blu-ray Disc付)

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イニシエーション(DVD付)

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2012年を凄絶な速度で駆け抜けた渋谷慶一郎。その残像の周縁に散乱する無数の線は「おわりの音楽」をめぐる省察通奏低音としながらオペラ『THE END』へと収束した。その極限的な探究の果てに抽出された重層的な暗号の網の目は、私たちに解読の欲望を喚起しつつも容易に言語化することを許さない過剰さを孕んでいる。しかしそうした暗号の錯綜を解読する格子がこの『イニシエーション』にあらかじめ内包されていたとしたらどうだろうか。


『イニシエーション』の楽曲構造に着目すると、そこには大きく〈A-B-A〉という構成を見出すことができる。ここでメロディAを切り取ると、そこには〈a-a'-a〉という構成が現れる。そしてこのメロディaとメロディa'は、まるで互いを鏡に投影したかのような反転した音型を旋律内に含んでいる(ex:メロディa冒頭の「レ→ラ」と上行する音型とメロディa'冒頭の「ラ→レ」と下行する音型)。こうした音楽的な特徴を「三部形式」や「反行形」といった楽典的な術語によって名指すことも可能ではある。しかし、むしろここで重要であるのは、こうした極めて正統的な作曲技法に即して「三項関係(トリニティ)」と「自己相似性(フラクタル)」が織り成す美しい均衡が集約されているということだろう。


「三項関係」と「自己相似性」を重ね合わせることによって導き出されるイメージは『イニシエーション』のPVにおいても執拗に反復されている。このことは、このPVが三人の《ミク》による同期的なダンスによって起動し、《ミク1》の指紋の襞をさまよう《ミク2》の耳介の奥へと滑り落ちる《ミク3》において唐突に停止することにも端的に現れている。


そしてこの「三項関係」と「自己相似性」を内包した『イニシエーション』の楽曲構造は、オペラ『THE END』の物語構造とも奇妙な符合を示している。例えば、提示部としてのメロディAにおけるメロディaとメロディa'の対比は、オペラ序盤での《ミク》とその《影》との間における緊張関係を示しているかのようである。また、展開部としてのメロディB終盤において現れる官能的な舞踏のようなパッセージは、オペラ中盤での《ミク》と《動物》との出逢いによってもたらされた性急な転換と呼応している。そして、再現部としてのメロディA'における鮮烈な転調(それまで「ラソファミ→レ」と下行していた旋律が「ラソファミ→ファ」と上行すると同時に短三度上へと移行する転調)は、オペラ終盤での《超生物》への進化とその劇的な飛翔と重なり合っている。さらに言えば、終結部としてのメロディCにおける突然の幕切れは、オペラの終幕を飾るアリア『イニシエーション』の自己相似形そのものである。


今後も私たちの解読の欲望を喚起し続けるであろうオペラ『THE END』の青写真が、一夜にして生み出されたという『イニシエーション』の中にあらかじめ圧縮的に閉じ込められていたという推察も、あながち荒唐無稽な夢想ではないだろう。



[追記]
なお、本盤には、ADH(ATAK Dance Hall)の系譜に属する強烈なダンストラック『RT/リアリティ』と『ゴーゴーバー』が収録されている。もしこれらのトラックに連なる軌跡を体感したいならば、以下のアルバムに収録されているDJ JIMIHENDRIXXX(a.k.a.Keiichiro Shibuya)によるリミックス作品をお薦めしたい。

きらきら(初回生産限定盤)(DVD付)

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DEAR FUTURE

DEAR FUTURE

リコンストラクション・シリーズ

リコンストラクション・シリーズ

2012年ベストディスク10+/おわりの音楽のはじまり

2012年も数多くの素晴らしい音楽との出会いがありましたが、それでもつい繰り返し聴いてしまう作品というのは自然と絞り込まれてくるもので、やはりそれは個々人の音楽履歴が織り成す私的な音楽地図が、べき乗分布的に色濃く反映されてしまうからなのかもしれません。というわけで今回は、ただただ素直に、何度も繰り返し聴いていた作品、そしてこれからも聴き続けていくであろう作品を選んでみました。
とはいえその一方で、今回のセレクトは、昨年の震災直後に渋谷慶一郎さんが記した「おわりの音楽」(http://bit.ly/JRBOHI)というテクストによって強く方向付けられてもいます。つまり、終わりゆく日常において生み出されるであろう新たな音楽形式の可能性に心惹かれるものがあったということが言えると思います。一見、通常では交差することのない固有名たちに「おわりの音楽のはじまり」を感じ取ってもらえたとしたらうれしく思います。それではどうぞ!


[10]shotahirama『NICE DOLL TO TALK

NICE DOLL TO TALK

NICE DOLL TO TALK

1トラック14分ほどの短い作品。リピートを前提としたと思われる構成。聴き慣れた音楽形式とは一線を画する不穏な音の連なり。ミニマル/バリエーションでもなくランダムでもなく。研ぎ澄まされた聴覚による奔放かつ精密な響きの配置。野蛮さと優美さが官能的にせめぎ合いながら電子音の海へと溶解していく。無時間的な幸福に満ちた1枚。


[9]Bill Evans『Live at Art D'Lugoff's Top of the Gate』

Live at Art D'Lugoff's Top of the Gate 輸入盤]

Live at Art D'Lugoff's Top of the Gate 輸入盤]

1968年10月23日に行われたライブの未発表音源。ここで重要なのはあの名盤『Alone』を録音し終えた2日後の演奏であるということだろう。選曲上の重なりは「Here's That Rainy Day」の1曲のみであるが演奏上の雰囲気はかなり近しいものがあり思わず微笑んでしまう。エヴァンスによる時を越えたUst配信? そんな21世紀的な驚きが詰め込まれている。


[8]TM NETWORK『I am』

I am

I am

90年代にJ-POPの音楽形式を後戻りできないほどに書き換えてしまった小室哲哉。その小室哲哉TM NETWORKとして自分自身が生み出した音楽形式を破壊することを試みたとしたら? おそらく小室哲哉は『楕円とガイコツ』のその先を見据えている。2010年以降の小室哲哉が断片的に提示し続けてきた新たな手札たちを極めて高い密度で収束させた会心作。


[7]Ryuichi Sakamoto『THREE』

THREE

THREE

音楽にとって「完成」とは何を意味するのか? ある時点においてはこれ以上ないと判断された編曲や演奏が果てしなく更新され続けていくという感覚。その意味で本盤は現時点における坂本龍一の暫定的な最高傑作であると言えるだろう。そしてその延長線上には現在における到達点をも乗り越えてしまうであろう未来の音さえも幻聴のように鳴り響いている。


[6]Tetsuya Komuro『Far Eastern Wind』

Far Eastern Wind -Complete

Far Eastern Wind -Complete

2008年に配信限定でリリースされた長大なアンビエント作品の待望のCD化。移ろいゆく日本の四季をモチーフとしながらも決して安易な叙情性に回収されることのない透徹した響き。小室哲哉の指先から即興的に紡ぎ出されるシンセサイザーの音色たちは「AUTUMN」終盤においてイーノの初期作品に限りなく接近していく。永遠に閉じることのない瞑想的な円環。


[5]Keiichiro Shibuya+V.A.『ATAK017 Sacrifice Soundtrack for Seiji“Fish on Land”』

サクリファイス・サウンドトラック

サクリファイス・サウンドトラック

3.11を跨いで作曲されたという「Sacrifice」。その儚くも熱情的なピアノの響きは「おわりの音楽のはじまり」を予感させる過剰さを孕んでいる。そして参加アーティストの目も眩むほどの豪華さと収録曲の圧倒的な量感はもはや革命的ですらある。中でも渋谷慶一郎によるピアノとevalaによる電子音が織り成す静謐かつ甘美なトラックたちは必聴。


[4]高木正勝おおかみこどもの雨と雪 オリジナル・サウンドトラック』

劇場公開映画「おおかみこどもの雨と雪」オリジナル・サウンドトラック

劇場公開映画「おおかみこどもの雨と雪」オリジナル・サウンドトラック

野性の原初的な咆哮を慈愛に満ちた子守唄へと翻訳したかのような「産声」。我が子が成長する喜びを奔放に枝葉を伸ばす木々の瑞々しさに重ね合わせたかのような「そらつつみ」。別離の瞬間に訪れるであろう複雑な感情の交錯を鮮やかに切り取ったかのような「虹のたてがみ」。自然の法則に逆らうことのない伸びやかな旋律たちを限りなく繊細な手つきで束ねた1枚。


[3]Keiichiro Shibuya『ATAK018 Soundtrack for Memories of Origin Hiroshi Sugimoto』

ATAK018 Soundtrack for Memories of Origin Hiroshi Sugimoto

ATAK018 Soundtrack for Memories of Origin Hiroshi Sugimoto

協和と不協和の間をたゆたう抽象的な響きの連なり。聴き手の記憶を高精度で捉える叙情的な旋律の集積。本盤ではその響き/旋律の双方に、決して届くはずのない無限遠を目指して虚空に腕を伸ばしているかのような儚さが包容されている。その探究の果てに抽出された響き/旋律の結晶は、終わりゆく世界の絶望的な夜空に不意に現れた星座のような輝きを放っている。


[2]Seiji Takahashi『N41°』

N41°

N41°

  • アーティスト: 高橋征司,Seiji Takahashi
  • 出版社/メーカー: Te Pito Records
  • 発売日: 2012/05/23
  • メディア: CD
  • 購入: 7人 クリック: 97回
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本盤の魅力は多面的かつ多層的であるが中でもフィールドレコーディングの解像度と作曲的構築性の厳密さは群を抜いている。楽音、電子音、環境音の境界を融解させながら生成される偶然とも必然ともつかない超現実的な音像。その錯綜の直中から明滅的に浮かび上がる無数の心象風景。既成の区分では名指すことのできない21世紀音楽の新たな可能性がここにある。


[1]渋谷慶一郎 feat. 太田莉菜サクリファイス

サクリファイス

サクリファイス

反復を含まない楽曲構造による記憶へのアディクトと極限まで研ぎ澄まされた音色による身体へのアディクト。ここには「おわりの音楽」をめぐる思考の軌跡が高密度で集約されている。そして本作における「F→Dm→Em→Am」という進行が「F→G→Em→Am(ex:戦メリ)」と「Am→F→G→C(ex:Get Wild)」のどちらにも属さない強度を内包している点も注目に値するだろう。


[0]渋谷慶一郎東浩紀 feat. 初音ミク『イニシエーション』

イニシエーション(初回生産限定盤)(Blu-ray Disc付)

イニシエーション(初回生産限定盤)(Blu-ray Disc付)

楽曲、歌詞、そして映像に潜在する無数の暗号たち。そのすべてを把握することが困難なほど膨大なフラグメントが散り嵌められているにも関わらず、そのすべてが強制的に脳内に焼き付けられてしまうかのような二律背反的な感覚。終わりゆく日常へのアゲインストとして終わらない残響の中を生きること。ここにこそ渋谷慶一郎の導き出した答えの一つが端的に示されているように思われる。

Mark Fell『Sentielle Objectif Actualite』―記憶可能な音と記憶不可能な音の〈中間層〉―

Sentielle Objectif Actualite

Sentielle Objectif Actualite

ひとたび本盤を耳にすれば、その音色の密度と律動の精度に誰もが光速で打ちのめされるだろう。
しかしおそらくここには深遠な謎は何もない。
どういうことか。

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本盤の紙ジャケットを開けば、そこにはマーク・フェル自身によるものと思われる注釈が付されている。
そして驚くべきことに、その中には、本盤の制作過程において使用されたPCやDAW、ソフトウェアシンセサイザー、ハードウェアリズムマシン、モニター環境などが仔細に記されている。
さらに言えば、クラップやキックの音色名、サンプリング素材の詳細、そのレイヤーやパンニングに関する情報までもが何のためらいもなく明かされている。
その意味で、本盤における高密度の音色たちは、その一つ一つがイコライザーやコンプレッサーなどを介して一分の隙もないほどに磨き上がられているとはいえ、その発端は思いのほかありふれた機材にあることがわかる。

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一方、“Additional DJ notes for playback synchronisation”として以下のような些か風変わりな記述が見られる。
例えば、トラック1については次のように記されている。

Track 1 has a tempo of 137 beat per minute with a rhythmic loop of 30 units each lasting 109.49 milliseconds.

これを直訳したとすれば、「トラック1はBPM137でありそれぞれ0.10949秒持続する30ユニットの周期的なループからなる」といった程度の意味合いになるだろう。
では、ここにおける「それぞれ0.10949秒持続する30ユニットの周期的なループ」とは何か。
その意味するところは、以下のような式から明らかになる。

  60÷137÷4=0.10949

この式は、1分間(60秒)を137で割ることによって求められる4分音符1つの秒数、それをさらに4分割することによって求められる16分音符1つの秒数が、この「0.10949秒」であることを意味している。
すると、先の風変わりな記述は、「BPM137で16分音符が30ユニット連なったループからなる」といった意味合いとして捉えることが可能になる。
このように考えると、トラック2は「16分音符が31ユニット」、トラック3は「8拍3連音符が17ユニット」、トラック4は「16分音符が60ユニット」、トラック5は「16分音符が16ユニット」、トラック6は「16分音符が64ユニット」、そしてトラック7は「16分音符が31ユニット」からなるものとして、それぞれ捉えることができる。
したがって、聴感上は、トラック5とトラック6は「4分の4拍子」として、トラック1とトラック4は「8分の15拍子」として、そしてトラック2とトラック7は「16分の31拍子」として、それぞれ聴取することができるだろう。
そしてここで着目すべきは、「8分の15拍子」や「16分の31拍子」といった変則的なビートが織りなす複雑さそれ自体というよりはむしろ、それらが通常的な「4分の4拍子」というビートから単に「8分音符」や「16分音符」を1つ欠落させたものに過ぎないという事実である。
つまり、本盤を貫くある種の奇形的な音楽的力動性は、「拍節の欠落」という極めてシンプルなロジックに起因するものであることがわかる。

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冒頭に述べたように、本盤における音色の密度と律動の精度には深遠な謎は何もない。
それらは、ありふれた機材とシンプルなロジックによってのみ支えられている。
しかし、その結果として私たちのもとに提示された楽曲たちは、記憶可能な領域と記憶不可能な領域の境界を撹乱し続けるだろう。
それはつまり「ミニマル/バリエーション」と「ランダム」の〈中間層〉をめぐる問題系でもある。
今世紀、幾人かの先端的な音楽家によって探求されつつあるこの魅惑的な難題に対し、マーク・フェルによって提示された極めて美しい解の一つが本盤であると言っても過言ではないだろう。


[追記]
例えば、本盤の冒頭に配されたトラック1は、一定の音価のもとで繰り返されるエッジの効いたシンセパッドの音色によって幕を開ける。
ここにおいて私たちは、おそらくそのシンセパッドの音色を半ば無意識的に「4分の4拍子」という格子のもとで、「16分音符が16ユニット連なったもの」として捉えようとするだろう。
しかし、程なくしてキックやハイハットが織りなすビートが重り合った瞬間に、そのシンセパッドの音価は、実のところ「16分音符が15ユニット連なったもの」であったことに気づかされることになる。
そしてこの予期と現実の乖離(拍節構造上の齟齬)によって引き起こされる瞬間的な錯誤の感覚にこそ、本盤のエッセンスが凝集されていると言えるかもしれない。

高橋征司『N41°』―手術台の上のミシンと雨傘のような音楽―

N41°

N41°

  • アーティスト: 高橋征司,Seiji Takahashi
  • 出版社/メーカー: Te Pito Records
  • 発売日: 2012/05/23
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高橋征司のデビューアルバムとなるこの『N41°』を聴き終えた瞬間に想起されたのは、19世紀の詩人ロートレアモンによる次のような一節だ。

「手術台の上でのミシンと雨傘の偶然の出会いのように美しい」

この一節は、第一次世界大戦後のパリで隆盛を誇ったシュルレアリストたちによって特権的に扱われ、その芸術領域における種々の実践を圧縮的に要約するものとして知られている。そしてここで強調されているのは、通常では決して交差することのない遠く隔たった複数の〈現実〉が不意に並置され、そのコンテクストが異化された際に生じるある種の劇的な効果である。

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この『N41°』に収録された楽曲たちに通底するのは、〈音〉そのものへの深い慈しみの感情ではないだろうか。つまり、それが楽音であれ電子音であれ環境音であれ、私たちが忘れかけていた美しい記憶の断片を呼び覚ますような豊穣な響きを伴った〈音〉だけが極めて繊細な手つきのもとで選別され、その一つ一つが仄白い閃光を放つほどに丹念に磨き上げられている。そしてそれらの〈音〉たちが「作曲への意志」とも呼ぶべき厳格な制御のもとで精密に束ねられた瞬間に立ち現れる感覚はまさに未知の領域に属するものだ。

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たとえば、「雨」の音がある。この「雨」の音は、あるとき偶然的に切り取られた個人的な時間であるかもしれない。しかしその「雨」の音は、他の楽音、電子音、環境音と交錯した瞬間に、私たちの記憶の連想系を発動させ、ある種の普遍的な強度を伴った時間へと転化される。

──この「雨」の音は、あのとき私たちが母親に手を引かれながら歩く買い物からの帰り道で聴いたあの「雨」の音かもしれない。

──この「雨」の音は、あのとき私たちが待ち合わせの時刻に遅れた恋人を待ちわびながら聴いたあの「雨」の音かもしれない。

──この「雨」の音は、あのとき私たちが愛らしい笑顔をふりまく我が子を抱き寄せながら聴いたあの「雨」の音かもしれない。

過去と未来、現実と虚構、伝達可能なものと伝達不可能なもの。それらの境界を撹乱させる濃密な皮膚感覚を伴った記憶たち。その錯綜の直中から明滅的に浮かび上がる無数の心象風景。そうした要素が織りなす特異な磁場こそが、この『N41°』に唯一無二の魅力を付与しているように思われる。

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エレクトロニカと呼ばれる音楽が広く浸透しつつある現在において、日常に溢れる環境音の中に豊穣な響きを伴った〈音〉を再発見するという振る舞いは、もはやそれほど風変わりな光景ではない。しかし、それらの〈音〉を単に聴取することと、それらの〈音〉を実際に音声ファイルとして切り取ることの間には、容易に乗り越えることのできない断絶が存在する。その意味で高橋征司は、鋭敏な“ハンター(狩猟者)”のようでもある。そしてその過程において採集された〈音〉の一つ一つは、飽くなき実験の果てに極限にまで磨き上げられる。その意味で高橋征司は、明晰な“サイエンティスト(科学者)”のようでもある。さらにそれらの〈音〉たちは、透徹した「作曲への意志」に貫かれた領域において、楽音、電子音、環境音の境界を融解させながら半ば偏執的な周到さのもとで組み合わされ、偶然とも必然ともつかないある種の超現実的な音像を私たちのもとへと提示する。その意味で高橋征司は、孤高の“アルケミスト錬金術師)”のようでもある。

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楽音が生み出す叙情的な和声、電子音が生み出す官能的な律動、環境音が生み出す重層的な音響。それらの偶然的/必然的な出会いによって生成される箱庭的小宇宙。『N41°』には、ポストクラシカルやエレクトロニカといった既成の区分では名指すことのできない、21世紀音楽の新たな可能性が暗示的に刻み込まれている。

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なお、この記事は、『N41°』の高音質配信版(24bit/48kHz)を幾度もリピートしながら書かれたものです。本作に潜在する豊穣な〈音〉を存分に堪能する上では、こちらもぜひお薦めです!
http://ototoy.jp/_/default/p/28560

Keiichiro Shibuya『ATAK018 Soundtrack for Memories of Origin Hiroshi Sugimoto』─記憶の中で鳴る音の純度─

ATAK018 Soundtrack for Memories of Origin Hiroshi Sugimoto

ATAK018 Soundtrack for Memories of Origin Hiroshi Sugimoto

現代美術家杉本博司がその代表作の一つである「建築」シリーズの中で焦点距離を無限大の二倍に設定して被写体を撮影することによりその茫漠とした像に「形」の本質を浮かび上がらせたように、音楽家渋谷慶一郎は打鍵から減衰に至るピアノの移ろいゆく音色変化を極めて高い解像度のもとで切り取ることによりその抽象的かつ調和的な余韻に「響き」の本質を見出した。
本盤において提示された豊穣なピアノの響きはピアノとコンピュータの出会いによってもたらされる新たな可能性を切り拓くとともにプリペアドピアノ以来の発見とも呼ぶべき鮮烈な驚きを私たちに届けてくれる。
そしてこうした音響的な側面における語り尽くせないほどの先鋭性が本盤の中核をなす要素となっていることは疑いようのない事実であるが、おそらくそれだけが本盤のすべてではないということも急いで付け加えておかなければならないだろう。

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たとえば本盤の三分の一ほどは叙情的な旋律を伴ったピアノ曲によって構成されている。ここではいわゆる一般的な映画のサウンドトラックのようにいくつかのテーマを変奏するといった手法は採用されずに、曲ごとに新たな旋律が生み出されては次々と集積されていく。そしてここにおいてあの『サクリファイス』において提示された反復を含まない構造と記憶にアディクトするフラグメントが織りなす中毒性の問題系が再び立ち現れる。
一つの試みとして本盤における叙情的な旋律を伴った楽曲とその調性をまとめるとすれば以下のようになる。

  • tr06 「Timeless」 〔A〕
  • tr09 「Empty Garden」 〔E〕
  • tr12 「Life」 〔A〕
  • tr15 「Memories of Origin」 〔D〕
  • tr16 「Limitless」 〔A〕

ここでは〔A〕〔E〕〔D〕という三つ調が用いられている。そしてこれら三つ調は〔A〕をその中心に据えたとすれば〔E〕がその「属調」となり〔D〕がその「下属調」となる。つまりここには〔A〕のドミナントが〔E〕のトニックを導き、〔A〕のサブドミナントが〔D〕のトニックを導くとともに、〔A〕のトニックが〔E〕のサブドミナントと〔D〕のドミナントとを導くような関係性がある。そしてここで重要になるのは〔A - E〕におけるトニックとサブドミナントを結ぶ「AM7」と、〔A - D〕におけるサブドミナントとトニックを結ぶ「DM7」という二つの響きである。
上記の五つの楽曲は、というよりそれらの楽曲を構成する旋律の断片は「AM7」と「DM7」という二つの通路を介してある種リゾーム状に接続される可能性を持つ。そしてこの特徴は〔A〕〔E〕の楽曲においてそれぞれサブドミナント(DM7とAM7)を中心とした展開がなされ、〔D〕の楽曲においてトニック(DM7)を中心とした展開がなされることによりさらにさらに強められる。その結果として『サクリファイス』においてなされた試みは新たな次元へと拡張され、聴き手の記憶の中に永遠に閉じることのない多数多様の旋律の組み合わせを半ば強制的に生成させることに成功している。

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渋谷慶一郎は3.11直後における「おわりの音楽をはじめよう」という宣言とともに単なる反復構造や起承転結性を越えた新たな音楽形式を実践的に提示し続けている。そしてそれらは“先鋭的な音響”という形式をとるにせよ、“叙情的な旋律”という形式をとるにせよ、聴き手の“記憶”までをも極めて高い精度のもとで捉えはじめている。
その意味で本盤は“記憶の中で鳴る音の純度”をその極限までに追求した果てに抽出された結晶が、この終わりゆく世界の絶望的な夜空に不意に美しい星座を描いたかのような輝きを放っている。

TKスタディーズ002 - TM NETWORK 『I am』─僕たちは未来から差しのべられた手をつかむことができたか─

I am

I am

2012年になり本格的に活動を再開させたTM NETWORK。そのニューシングル『I am』が満を持してリリースされた。本作は、2014年の彼らがタイムマシンで時間を遡り、2012年の現在へと新たな曲を届けに来たという些か入り組んだ設定を伴っている。そしておそらくこのSF的な設定は、単にその未来的なイメージを増幅させるための演出としてだけではなく、本作の楽曲構造のレベルにおいても、さらにはフレーズのレベルにおいても深く反映されている。

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まず、この『I am』を一聴して誰もが感じることは、その楽曲構造のレベルにおける変則性だろう。その大まかな流れは以下のように表すことができる。

(C)→C→C'→X→A→C→C'→X→(A)→C→C'→X→C

ここでは(C)、(A)は、メロディC、メロディAをもとにした前奏と間奏を、そしてC'は、メロディCのバリエーションを示している。そしてここで着目すべきは、メロディC'の直後に現れるメロディXである。まず、このメロディXのバッキングは、いわゆるサビとして機能している[C→C']におけるバッキングを「C」から「E♭」へと短3度転調させたものから構成されている。その意味でこのメロディXは、サビである[C→C']を展開させた、いわゆる大サビとしてのメロディDと捉えることが可能である。しかしその一方で、このメロディXは、サビである[C→C']とメロディAとを接続する役割をも担っている。その意味でこのメロディXは、いわゆるブリッジとしてのメロディBとして捉えることも可能になる。そしてこのメロディXが持つ両義性は、「バース(Aメロ)」「ブリッジ(Bメロ)」「コーラス(サビ)」というJ-POP特有の音楽様式を転倒させるとともに、ある種の“騙し絵”的な状況を生み出すとことに成功している。

ここで[C→C']を一つのまとまりとしてのメロディCと捉えたとすれば、[C→X→A]という本作の中核をなす一連の流れからは、“未来から逆行する時間”という暗号を抽出することができる。つまり、メロディC、メロディX、メロディAは、それぞれ「未来」「現在」「過去」に対応しており、このことは、先述のあのSF的な設定─2014年から2012年へのタイムスリップ─と重なり合っている。

一方、この『I am』のフレーズのレベルに着目したとすれば、以下のような特徴を挙げることができる。たとえば、本作においては、メロディAを除いたすべての箇所において、ある二つのフレーズが繰り返し現れる。その一つは「ファ‐ソ‐ラ‐ド(あるいは、♭ラ‐♭シ‐ド‐♭ミ)」という上行する音型を伴ったベースであり、もう一つは「ド‐シ‐ソ‐レ(あるいは、♭ミ‐レ‐♭シ‐ファ)」という下行する音型を伴ったリフである。これらはそれぞれ、“順行する時間”と“逆行する時間”とを暗示しており、それらが互いに交錯する瞬間を求め合っているかのようなイメージを喚起する。そしてこれら二つのフレーズは、主音と属音(「ド‐ソ」あるいは「♭ミ‐♭シ」)からなるピアノのアルペジオによってつなぎとめられている。

このように考えると、本作の極点は、終盤の[X→C]にある。ここでは、メロディXにメロディCが次第に重なり合う瞬間が現れる。これはつまり、「現在」に「未来」がようやく追いついたことを意味している。それはまるで、2014年からやって来た彼らから差しのべられた手をようやくつかむことができた瞬間にも似た、限りなく深い充足感を聴き手に与えることになる。そして本作は、その冒頭から互いを求め合ってきた“順行する時間”と“逆行する時間”とが幸福な出会いを果たし、その瞬間を祝福するかのようなピアノのアルペジオとともに美しく幕を閉じる。

この『I am』という楽曲は、まさに、TM NETWORKの「過去」「現在」「未来」を結ぶタイムマシンであると言えるだろう。
さて、僕たちは未来から差しのべられた手をつかむことができただろうか?

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ロックDJ小室哲哉から考える

去る2月18日に行われた「YATSUI FESTIVAL 2012」に、あの小室哲哉がロックDJとして参戦しました。ターンテーブルシンセサイザーという変則的なスタイルでなされたパフォーマンスは、多くの観客に、大きな驚きをもって迎え入れられたということが、数多くのツイートなどから伺い知ることができました。

そして、この日のセットリストをツイッターのTL上でゲットし、それらの楽曲をまとめて聴き直してみたところ、あまりの胸の高鳴りに、これを一人で楽しんでいるのはもったいないと感じ、些か手抜きであることは承知の上で、関連動画をまとめた記事をアップしてみることにしました。

今年は、あのTM NETWORKが復活することがアナウンスされており、そこではロック的な要素が前面に出されるであろうことが仄めかされているのですが、そうした観点からも、これらの選曲は、非常に興味深いものがあります。

これらの楽曲は、どれも超有名なバンドの超有名な楽曲で、シングルカットされていたり、アルバムの1曲目に収録されていたりするようなものばかりです。しかしここには、そうであるがゆえの“強度”がたしかに満ちあふれています。

TM NETWORKとロックの関連といえば、『RHYTHM RED』におけるハードロック、『Major Turn-Round』におけるプログレッシブロックなどが思い浮かびますが、この「YATSUIフェス」でプレイされた楽曲には、そのどちらにも属さない、小室哲哉による“第三のロック観”のようなものが提示されているようにも感じられます。

4月末にリリース予定のTM NETWORKの新曲に想いを馳せつつ、これらの楽曲を深く聴き込んでみるというのもなかなか楽しいひとときかもしれません。それではロックDJ小室哲哉のプレイをどうぞ!

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