Keiichiro Shibuya『ATAK019 Soundtrack for Children who won't die, Shusaku Arakawa』―音楽に祝福された子供―

ATAK019 Soundtrack for Children who won't die, Shusaku Arakawa

ATAK019 Soundtrack for Children who won't die, Shusaku Arakawa

 本盤『ATAK019/Children who won't die』は、『ATAK010/filmachine』を父とし、『ATAK015/for maria』を母として生まれた“音楽に祝福された子供”だ。つまりここでは、コンピュータとピアノという二つの異なるテクノロジーの可能性が極めて美しい均衡のもとで結晶している。

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 アルバム冒頭を飾る「Reversible Destiny」。右手において繰り返される「D♯-C♯-A♯-B」の四つの音。その旋律を引き延ばしつつ追走し始めた左手は、やがて死の固定楽想「ディエス・イレ(怒りの日)」を想起させる音型(「F♯-E-F♯-D♯-E-C♯」あるいは「A♯-G♯-A♯-F♯-G♯-E-F♯」)を伴いながらゆるやかに螺旋を描いて下降していく。
 緊張と解放が交錯した繊細なピアノの響き。その間隙を縫って不意に立ち現れる変化と運動に満ちた電子音響。こうした要素の官能的な絡み合いから生まれる極めて純度の高い音像は、凄絶な速度で駆動し続ける渋谷慶一郎の自意識と無意識のせめぎ合いを鮮やかに切り取っている。

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 続く「In Memory of Helen Keller」「Architectural Body」。ここでは、周期と非周期の間を揺れ動く精密な音の配置が、反復の直中に漸次的な差異を滑り込ませるといった前世紀的な手法からは遠く離れた、ある種の非線形的な音楽構造を明滅的に浮かび上がらせている。
 機械によるランダムネスとリミッティング。人間によるランダムネスとリミッティング。それらが錯綜する極点において生成された恍惚的な瞬間の連なりは、音楽に残された数少ない可能性の一つを仄めかしつつ、私たちの感情の振幅を宙吊りにするだろう。

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「Requiem for not to die」「Numbers」「Landing Sites」。これら三つの長大な楽曲は、 2010年公開の映画『死なない子供、荒川修作』において、既にその原型となる楽曲が提示されている。そしてこれらの楽曲は、その後、二年程の歳月をかけ、比類なき精度で磨き上げられることになるものの、 2012年以降における渋谷慶一郎の軌跡を予見するかのような重要なフラグメントが予め散り嵌められていたという事実には慄然とせざるを得ない。
「Requiem for not to die」におけるひそやかなピアノと反転されたローズ・ピアノの並置。その協和と不協和の間を移ろう抽象的な響きは、『ATAK017/Sacrifice』『ATAK018/Memories of Origin』に直結する儚さを包容している。また、「Numbers」における静謐な緊張の持続。その互いに干渉することのないピアノや弦の響きの重なりは、『One(X) Cage→Today』におけるナンバー・ピースの同時演奏を想起させずにはおかないだろう。そして「Landing Sites」における非線形的な電子音響と精緻なエディットが施されたマドリン・ギンズの声。その輻輳的な情報のレイヤーが織り成す圧倒的な音響空間は、まさにあのオペラ『THE END』と双児の関係にあるかのようだ。

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 アルバムのラストに配された「Children who won't die」。その冒頭における主旋律の不在。そして程なくして現れるあの「D-F-E-D-F-G」という慈愛に満ちた旋律。たしかに私たちはこの曲を聴いたことがある。しかし同時に私たちはこの曲を聴いたことがない。この曲はおそらく「for maria」の変奏ではない。おわりの音楽のはじまりを告げたあの「for maria」は、「Children who won't die=死なない子供」として産まれ直したのだ。音楽に祝福された子供の誕生。高らかに繰り返されるあの「B-C♯-E-G♯-C♯-C♯」という旋律は、まるではじまりの音楽のはじまりを告げる歓喜の産声のように、私たちの心を穏やかな光で満たすだろう。