まずは気楽に。

ツイッターを初めて半年ほど。ようやく自分なりの立ち位置や文体のようなものをつかみつつあり、楽しみながら続けている。

そしてブログ。ストックに値する内容のものをと考えると、そのプレッシャーからなかなか筆が進まない。したがって、まずは気楽に、ツイッターの延長のようなかたちで、隙だらけの思いつきをつらつらと書き連ねてみよう。そしてそこから、自分なりのブログでの立ち位置や文体などを次第に定めていければよい。

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ブログタイトルを決めるにあたり、いろいろな候補を考えていたのだが、最終的にはフェリックス・ガタリの著書『分裂分析的地図作成法』をもじった「私的音楽地図作成法」に落ち着いた。私はガタリの熱心な読者というわけではないが、その創造的にな姿勢には共感するところが多い。たとえばガタリは、あるところで次のように語っている。

「わたしは、さまざまな概念を構築するが、それは、抽象的な普遍性を求めてのことではない。概念は使うものであって、それをアーティストならアーティストが自分の領域で使ってみてそれがだめなら作りかえればよいのです。」(フェリックス・ガタリ『政治から記号まで』)

もちろんこのブログでは、ガタリのような突き抜けた概念装置を提出することはできないだろう。しかし、ある概念を構築し、使用し、それがだめなら再び構築し直せばよいといった彼のポジティブな姿勢は常に見習っていきたいと思う。

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さて、最近話題の『思想地図β』に収録されていた座談会「テクノロジーと消費のダンス」が非常に興味深かった。そして菊地成孔による次のような発言が心にとまった。

「僕は加算的なプロファイリングによる窒息感というのは極限まで来ていると思います。オレはこんだけ聴いている、知っている、という強度は背伸びと劣等感、そして、これは自分とは関係ないという、無関係という言葉に名を借りた差別意識を量産するからです。僕が思うのは、これからは何を聴いたかではなくて、何を聴いていないかという、マイナス申告のプロファイリングがリアルさと強度を持つと思います。もちろん、音楽だけではなく。」

当然のことながら、私はまだまだ聴いたことのない「音楽」が無数にある。そして未知の音楽との出会いはこの上ない喜びだ。しかし、それらを盲目的に埋め尽くしていこうとする強迫観念はもう捨ててもよい時代なのかもしれない。個人的な履歴上の欠損を強度に転換し、まだ誰も見つけ出していない「線」を私的な音楽地図の中に引く、そんなことを夢想している。

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それにしても、ツイッターとは異なり、このブログという世界は本当に静かだ。そして何より、字数を気にせずに書けるというのがよいですね(笑)。