些か荒唐無稽ではあるが、21世紀初頭における音楽史的な達成の一つは「フレンチエレクトロ」にあった、という仮説は成り立つだろうか。それはつまり、音圧と音色によるアディクト、という音楽における新たな快楽性を切り拓く端緒となった、という意味においてである。
こうした、音圧と音色によるアディクト、という方向性は、音楽が、ProToolsに代表されるDAWによって録音/編集され、iPodに代表される携帯音楽プレーヤーによって再生されるようになった、という環境の変化に伴い、ダンスミュージックという枠組みを越えて、あらゆる音楽ジャンルを覆い尽くしていくことになる。
そのような中、この2013年は、こうした音圧と音色のオーバードーズを、別のしかたで乗り越えようとするかのような、新たな潮流の胎動が感じられた年でもあった。以下に紹介するアルバムは、私にとって、そうしたフェーズの移り変わりを予感させる、清冽な印象に満ちた音楽たちである。
[10]M-Koda『Generating Arrow Diagram』
現在、
エレクトロニカが、停滞と背
中合わせの成熟へと緩やかに向かいつつあるとすれば、M-Kodaは、そうした
アポリアを、比類なきプログラミングの精度と伸びやかなメロディラインによって乗り越えるだろう。マシニックでありながらピースフル。 同時代的な音楽地図を自由奔放に横断するその様は、さながらラップトップを携えた吟遊詩人のようでもある。そして私は、この愛すべきアルバムを、
オウテカやクラークと並べて、リビングのCDラックにディスプレイしている、という一言を付け加えておきたい。
[9]James Blake『Overgrown』
ジェイムス・ブレイクの1stアルバムに対して、「機械と人間の交替」という鋭い分析を加えたのは
渋谷慶一郎であるが、この分析の視点は、おそらくこの2ndアルバムに対しても有効である。つまりここでは、従来的な役割分担が反転され、変化はトラック(機械)によって、反復はボーカル(人間)によって担われる、という手法が踏襲されている。そして、音色と旋律に加味されたスウィートネスが、こうした反転を過剰に成熟(=overgrown)させている点にこそ、本作の可能性の中心があるように思われる。
[8]My Bloody Valentine『mbv』
アルバム冒頭「she found now」における、薄いヴェールの向こうに幼き日の茫漠とした記憶を透かし見るかのような音像。続く「only tomorrow」における、過剰に接写的な音素材たちが織り成す甘美なまでに雑駁とした響きの奔流。本作の魅力の一つは、この無造作に投げ出されたかのような録音とミックスの遠近法的な倒錯にある。そして、このフラットな音の並置が生み出す麻薬的な歪みの干渉は、音圧と音色によるアディクトの起源の一つとしての
シューゲイザーから提示された応答のようにも聴こえる。
[7]きゃりーぱみゅぱみゅ『なんだこれくしょん』
少女まんが的な想像力から丹念に抽出された純度の高い「カワイイ」の諸要素たち。それらを、メロディや歌詞、音色といった複数のレイヤーにおいて、
輻輳的に編み合わせることによって生み出された「カワイイ」の
ポリフォニー。そしてその深層において密やかに繰り広げられる、90年代の
小室哲哉とはまた別のしかたでのモード(旋法)とコード(和声)の探究。現在、
中田ヤスタカが、その掌中に収めつつあるJ-POPの新たな方程式が、楕円とガイコツを越えうるかどうかという点は注目に値するだろう。
[6]Tetsuya Komuro『Digitalian is eating breakfast 3』
小室哲哉が提示した「
Watch the Music」というキーワード。それはまるで、EDMにおいて、 “Electronic”であることよりも、“Dance”であることよりも、“Music”そのものであることの快楽性を追究しようとする宣言のようでもある。中でも、本作の冒頭三曲における、速度に満ちた楽曲展開と予測
不能なゆらぎに満ちた音像が織り成す煽情的な高揚感には、通常的なアルバム一枚に匹敵するほどの情報量が凝縮されているといっても過言ではない。本作は、ハードウェア
シンセサイザーの臨界点とも呼ぶべき名盤である。
[5]Daft Punk『Random Access Memories』
サイボーグたちは「音楽性(=musicality)」の夢を見るか? おそらく、本作におけるピークの一つは、ちょうどアルバムの折り返し点に位置する「Touch」にある。無時間的なまどろみの中に反響するサイボーグたちの声。しかしそれは、未だ音楽的な旋律になりえてはいない孤独な呟きだ。すると次の瞬間、サイボーグたちの音楽的な記憶の連想系が唐突に発動する。音楽性を希求するサイボーグたちが見る無秩序に美しい夢。その極彩色の音の連なりは、私たちが忘れかけていた何かを呼び覚ましてくれるだろう。
[4]Ryoji Ikeda『supercodex』
本作を、線形的な音色による線形的な音楽構造の探究である、と要約することは可能だろうか。しかし、その音色や音楽構造における純粋さは、直ちに単純さと結びつくというよりは、むしろ、純粋さの周囲に散乱するある種の豊穣さを露わにするだろう。波形と律動の双方のレベルにおける無数の美しいパターンの集積。そして、その極限的な探究の果てに、粒子状のパルスがドローンの海へと溶解し、そのドローンのうねりの直中からパルスの飛沫が明滅的に立ち現れる瞬間には、人知を超えた崇高さが宿っている。
[3]shotahirama/DUCEREY ADA NEXINO『Just Like Honey』
shotahiramaによる「Baby You’re Just You」。この楽曲は、およそ31小節と2分の1小節からなる6つのパートから成り立っている。そして、それらは大きく前半の[noise]と後半の[beat]の2つのパートに分かれており、[noise]のパートには[beat]の断片の先触れが現れ、[beat]のパートには[noise]の層の薄膜が回帰するというような、相互に錯綜した構造を呈している。そのため、この楽曲は、まるで浅い眠りの中で断続的に繰り返される不条理な夢のように、意識と無意識の境界を不気味に撹乱しつつ、ある種の不穏さを甘美な陶酔によって蝕んでいく。 一方、 DUCEREY ADA NEXINOによる「Aerial Ambitions」は、密室に吹き荒れる暴風のように美しい。そして、スプリットシングルという形態を選択した本作における聴覚的な快楽性と批評的な快楽性の深度は比類ない。
[2]Keiichiro Shibuya『ATAK019 Soundtrack for Children who won't die, Shusaku Arakawa』
先述の『supercodex』との対比において、本作を、
非線形的な音色による
非線形的な音楽構造の探究である、と要約することは可能だろうか。『ATAK010/filmachine』に由来する変化と運動に満ちたノイズ。そして、『ATAK015/for maria』に由来する緊張と解放が交錯したピアノの響き。こうした
非線形的な音色たちに導かれるようにして生み出された恍惚的な瞬間の連なりは、周期と非周期の間を揺れる
非線形的とも呼ぶべき新たな音楽構造の可能性を浮かび上がらせている。その意味で本作は、コンピュータとピアノという二つの異なるテク
ノロジーが、極めて美しい均衡のもとで結晶した“音楽に祝福された子供”のようなアルバムである。
[1]Keiichiro Shibuya+Hatsune Miku『ATAK020 THE END』
あるとき
渋谷慶一郎は、
坂本龍一との間でなされた会話を、次のように述懐している。「20世紀の
西洋音楽で残るのはケージ、ノーノ、フェルドマンな気がするという話をしたことがあって僕はそこにペルトの名前を足した気がする」。そして本作は、こうした20世紀音楽の臨界点とも呼ぶべき作曲家たちを同時に乗り越えようとする極めて野心的な試みであったように思われる( 実際、日本人の作曲家がパリのシャトレ座で人間不在の
ボーカロイド・オペラを上演するというその状況は、
ジョン・ケージの「4′33″」以来の
音楽史的な事件であったといっても過言ではないだろう)。その音楽的な側面についての詳細な検討は、また別の機会に譲ることにするが、
バロック以前からEDMに至る
西洋音楽の歴史を、一旦、ベースミュージックという一点で意図的に短絡させた上で、それらをありえないしかたで奇形的に圧縮することによって生み出された楽曲たちは、美しさと醜さの判断をどうでもよくさせる強度に満ち溢れている(そしてそれはどこか劇中の「超生物」のイメージと重なり合う)。おわりのおわりからはじまりのはじまりへの反転。そして、際限なく加速する響きの奔流が、声と言葉が織り成す一本の線へと収束していくその瞬間に立ち現れる陶然とした感覚は筆舌に尽くし難い。