Keiichiro Shibuya『ATAK021/Massive Life Flow』―そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり―

ATAK021 Massive Life Flow [DVD]

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黒いジャケットをまとった渋谷慶一郎とピアノに並ぶ白と黒の鍵盤にフォーカスしたモノクロームの映像。一見、ストイックにも感じられるこの空間で奏でられるピアノの音色は、その予想に反して、親密な距離と穏やかな温度を伴っている。

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本作『ATAK021/Massive Life Flow』は、 2011年4月に10日間にわたって行われた「音楽の公開制作」という一風変わったインスタレーションの記録である。そのため、ここに収められた演奏は、完成された音の再現としてのコンサートやレコーディングとも異なり、無方向な音の戯れとしてのインプロヴィゼーションとも異なる、今まさにその指先から生み出されつつある別なる可能性に開かれたクリエーションの瞬間を鮮やかに切り取っている。

たとえば、M03「Limitless」の終盤には、後に『ATAK018』に収録されたバーションには含まれていない転調が不意に現れ、楽曲自体が持つ運動性が作曲者/演奏者の制御を振り切り、無限の高みを目指してどこまでも昇りつめていこうとする瞬間を垣間見ることができる。

また、M10「For Maria」は、その後半部に原曲にはなかった新たな内声が付け加えられ、『ATAK015』に収録されたバージョンから『ATAK019』に収録された「Children who won’t die」へと今まさに生まれ直そうとする変容の過程を捉えた貴重なテイクとなっている。

そして、M14「Initiation」の長大なコーダには、世界を驚かせたボーカロイドオペラ『THE END』のクライマックスを飾る「声と言葉のアリア」につながるこの上なくエモーショナルな旋律の連なりが立ち現れ、「目を閉じて会いたかった」という初音ミクのあの歌声を幻聴のように聴き取ることもできる。

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3.11の直後、日常が急速におわりに向かおうとしていたあの時期に生み出されたはじまりの産声にも似た音たちの記録。このパーソナル/パブリックの境界を無化するほどのオープンネスに満ちた本作は、『ATAK000』以来のコアなファンはもちろん、「Spec」しか知らないというような新しいファンにこそ開かれた作品となっている。

私的TKベスト10

 近日発売される『小室哲哉ぴあ TK編』。その中の企画の一つである「小室哲哉の楽曲ベスト10」に、私も真剣に取り組んでみました。
 小室哲哉さんの楽曲の中から10曲を選ぶ…。その過程は、この愛すべき一曲を切り捨てなければならないという怖さとの戦いでもありました。しかし、そのようにして選び抜かれた10曲を並べてみると、見事に自分自身の音楽的な好みが鮮やかに浮かび上がっていることに気づかされます。
 いずれの楽曲も有名なものばかりで、解説などは必要ないと思いますので、タイトルを年代順に並べるにとどめておきます。それでは「私的TKベスト10」をどうぞ!

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My Revolution渡辺美里(1986年)

Self ControlTM NETWORK(1987年)

Get WildTM NETWORK(1987年)

JUMP/渡辺美里(1991年)

愛撫/中森明菜(1993年)

EZ DO DANCEtrf(1993年)

NEVER END/安室奈美恵(2000年)

on the way to YOU/globe(2001年)

genesis of next/globe(2001年)

ダイジナコト/AAA(2011年)

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小室哲哉ぴあ TK編』には、「小室哲哉によるTK100曲解説」という企画もあるとのこと。発売が楽しみです!

Akihiko Matsumoto『Metamemory』―アルゴリズムに《人格》は宿るか?―


http://plumus.tokyomax.jp/release/mus-012


quelltll名義での前作『Mosaic Gold』では、中世から近現代に至る各時代の西洋音楽をダンスミュージックにリメイクしてみるというプロセスの中で、たとえば、初期YMOを駆動させていた楽曲生成のアルゴリズムの一端を浮かび上がらせているかのように感じられた点を個人的には面白く聴きました。

そして本作『Metamemory』では、そこはかとなくポップでもある出音の中に、機材との戯れとしてのランダマイズとは別次元の厳密にコントロールされたアルゴリズムが生み出す超絶的に複雑なノイズやビートが明滅的に交錯するという、まさに未知の音楽体験と呼ぶにふさわしい仕上がりになっているのではないかと思います。

M4「Linearlity」における優美な旋律、M5「Thanatos」における凶暴な律動、M7「Ramification」における繊細な和声。これら速度と密度に満ちた音像は、たしかに人間には生み出すことのできない過剰さが溢れているのですが、同時にそこには、アルゴリズムから生成されたとはにわかには信じ難い強烈な個性(=人格)を見出してしまうという二律背反的な感覚が引き起こされます(余談ですが、M5における暴走するビートには、小室哲哉さんの指ドラムを彷彿とさせる官能性すら感じ取れました)。

なお、松本昭彦さん自身によって本作の詳細な解説がなされていますので、そちらもぜひご一読いただければと思います。>http://akihikomatsumoto.com/works/metamemory.html

山下智久×渋谷慶一郎「Moon Disco」から考える新世紀のJ-POP

遊

 先日リリースされた山下智久さん(以下、“山P”と呼びます)のアルバム『遊−ASOBI−』。この先端的なダンスミュージックが詰め込まれたアルバムの中でもとりわけ異彩を放つのは、あの渋谷慶一郎さんが作編曲を担当した「Moon Disco」ではないかと思います。
 この「Moon Disco」は、渋谷さん自身が「分析不可能」と語っているほど、刺激の強い音色と複雑な展開に満ちた楽曲なのですが、今回はこの通常的なJ-POPとは一線を画した楽曲から、山Pと渋谷さんが提案する新世紀のJ-POPにおける可能性の一端を読み解いていきたいと思います。

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 まず、この「Moon Disco」は、楽曲の前半と後半で、大きく雰囲気の異なるリズムが取り上げられていることが特徴的です。仮に、この前半のパートを〈エレクトロ〉、そして後半のパートを〈ダブステップ〉と呼ぶことにしましょう。
 次に、メロディについて整理すると、この楽曲は、以下のような四つのメロディから構成されていることが分かります。

 ・メロディA →《月の上で Bounce 〜♪》の箇所
 ・メロディB →《蝶のように踊ってる 〜♪》の箇所
 ・メロディC →《この星の旋律 一緒に奏でよう 〜♪》の箇所
 ・メロディD →《無重力の世界に溶けてしまいそう 〜♪》の箇所

 このように考えると、前半の〈エレクトロ〉のパートは、以下のような構成として整理することができます。

 メロディA→メロディB→メロディA’→メロディB(+メロディA’)
 
 ここでポイントとなるのは「メロディB(+メロディA’)」の箇所で、これは、山Pが歌うメロディBの背後で、その直前に山Pが歌っていたメロディA’がシンセサイザーの音色に置き換えられて重ねられていることを意味しています。
 こうした二つのメロディの重なり合いは、構成の凝ったJ-POPの楽曲でも、ときおり見かける手法ではあります。ですが、この「Moon Disco」では、こうしたメロディの重なり合いが、J-POPのお約束から遠く離れて、むしろワーグナーからマーラーに至る流れを21世紀的に変奏したかのような雰囲気すら感じられるという点に、オペラ『THE END』以降の渋谷さんが目指す音楽性の一端を垣間見ることができるのではないかと思います。

 同様に、後半の〈ダブステップ〉のパートは、以下のような構成として整理することができます。

 メロディC→メロディD(+メロディC)

 ここにおいても、「メロディD(+メロディC)」という、山Pが歌うメロディDの背後で、その直前に山Pが歌っていたメロディCがシンセサイザーの音色で重ねられるという場面が現れます。しかも、〈エレクトロ〉のパートから〈ダブステップ〉のパートへと転換し、メロディCが現れる瞬間には、一瞬だけすべてのリズムパートがミュート(消音)され、その隙に聴き手が拍節を取り違えてしまうようなトリックが巧妙に仕掛けられています。そのため、ラストの「メロディD(+メロディC)」が現れる瞬間には、予期されたタイミングと現実に鳴る音との齟齬から、不穏な裂け目が顔を覗かせ、予定調和なJ-POPではありえないほどの混沌とした高揚感が生み出されています。

 以上のことから、この「Moon Disco」における重要なポイントは、二つのメロディの重なり合いにあることが分かります。そしておそらく、こうした二つのメロディの重なり合いは、山Pと聴き手(=ファン)が無意識下で官能的に絡み合うことを意図して設計されています。分析不可能な複雑さの背後で繰り広げられる無意識下での官能的な絡み合い。この点こそが、 山Pと渋谷さんが提案する新世紀のJ-POPにおける可能性の一つであり、何よりファンに向けられたこの上ない贈り物であるようにも感じられます。

[補記]
 渋谷慶一郎さんによる「Moon Disco」から中田ヤスタカさんによる「Back to the dance floor」への転換は、かつて中森明菜さんのアルバム『UNBALANCE+BALANCE』での小室哲哉さんの楽曲から坂本龍一さんの楽曲へと転換する瞬間にも匹敵するJ-POP史上の事件の一つだと思うのですが、この渋谷慶一郎さんと中田ヤスタカさんを結びつけるある一つのコード進行があるとしたらどうでしょうか(なお、以下で取り上げるコード進行は、すべてハ長調に移調した上で分析を進めていきます)。
 まず、ここ数年の渋谷慶一郎さんの楽曲の中でとりわけ印象的なコード進行は、以下のようなものです。

 | F | Dm | Em | Am |

 このコード進行は、「サクリファイス」(2012年2月リリース)やオペラ『THE END』の「時空のアリア」(2012年12月初演)などでも用いられていて、実際にはテンションノートが加えられたり代理コードが用いられたりしながら色彩豊かな展開がなされています。
 そしてこのコード進行は、J-POPにおいて強い影響力をもつある二つのコード進行、すなわち、坂本龍一さんによる「戦メリ」と小室哲哉さんによる「Get Wild」の二つのコード進行と密接に関わりつつ、そのどちらにも属さない第三の可能性を提示したものとして捉えることもできます。
 坂本龍一さんの「戦メリ」で用いられているコード進行は以下のようなものです。

 | F | G | Em | Am |

 そして小室哲哉さんの「Get Wild」で用いられているコード進行は以下のようなものです。

 | Am | F | G | C |

 このように考えると、先の「サクリファイス」などで用いられていたコード進行は、特に鍵盤上でのベースの動きに着目したとすれば、ちょうど「戦メリ」の中に「Get Wild」を投げ入れたような進行になっていることが分かります。
 そしてこの | F | Dm | Em | Am | というコード進行は、何と中田ヤスタカさんによるあの「にんじゃりばんばん」(2013年3月リリース)のサビにおいても用いられていて、「戦メリ」と「Get Wild」のどちらにも属さない第三の地点において、渋谷さんと中田さんの二人が不意に結びつくというのは、とても興味深い出来事であるように思われます(ちなみに、山Pのアルバム『遊』に収録された中田ヤスタカさんによる「Back to the dance floor」では、このコード進行を若干変形させた | F | Dm | Am | G | という展開が現れ、個人的にはとても盛り上がる瞬間でもあります)。

2013年ベストディスク10/音圧と音色のオーバードーズを越えて

 些か荒唐無稽ではあるが、21世紀初頭における音楽史的な達成の一つは「フレンチエレクトロ」にあった、という仮説は成り立つだろうか。それはつまり、音圧と音色によるアディクト、という音楽における新たな快楽性を切り拓く端緒となった、という意味においてである。

 こうした、音圧と音色によるアディクト、という方向性は、音楽が、ProToolsに代表されるDAWによって録音/編集され、iPodに代表される携帯音楽プレーヤーによって再生されるようになった、という環境の変化に伴い、ダンスミュージックという枠組みを越えて、あらゆる音楽ジャンルを覆い尽くしていくことになる。

 そのような中、この2013年は、こうした音圧と音色のオーバードーズを、別のしかたで乗り越えようとするかのような、新たな潮流の胎動が感じられた年でもあった。以下に紹介するアルバムは、私にとって、そうしたフェーズの移り変わりを予感させる、清冽な印象に満ちた音楽たちである。


[10]M-Koda『Generating Arrow Diagram』

Generating Arrow Diagram

Generating Arrow Diagram

 現在、エレクトロニカが、停滞と背中合わせの成熟へと緩やかに向かいつつあるとすれば、M-Kodaは、そうしたアポリアを、比類なきプログラミングの精度と伸びやかなメロディラインによって乗り越えるだろう。マシニックでありながらピースフル。 同時代的な音楽地図を自由奔放に横断するその様は、さながらラップトップを携えた吟遊詩人のようでもある。そして私は、この愛すべきアルバムを、オウテカやクラークと並べて、リビングのCDラックにディスプレイしている、という一言を付け加えておきたい。


[9]James Blake『Overgrown』

Overgrown

Overgrown

 ジェイムス・ブレイクの1stアルバムに対して、「機械と人間の交替」という鋭い分析を加えたのは渋谷慶一郎であるが、この分析の視点は、おそらくこの2ndアルバムに対しても有効である。つまりここでは、従来的な役割分担が反転され、変化はトラック(機械)によって、反復はボーカル(人間)によって担われる、という手法が踏襲されている。そして、音色と旋律に加味されたスウィートネスが、こうした反転を過剰に成熟(=overgrown)させている点にこそ、本作の可能性の中心があるように思われる。


[8]My Bloody Valentine『mbv』

MBV

MBV

 アルバム冒頭「she found now」における、薄いヴェールの向こうに幼き日の茫漠とした記憶を透かし見るかのような音像。続く「only tomorrow」における、過剰に接写的な音素材たちが織り成す甘美なまでに雑駁とした響きの奔流。本作の魅力の一つは、この無造作に投げ出されたかのような録音とミックスの遠近法的な倒錯にある。そして、このフラットな音の並置が生み出す麻薬的な歪みの干渉は、音圧と音色によるアディクトの起源の一つとしてのシューゲイザーから提示された応答のようにも聴こえる。


[7]きゃりーぱみゅぱみゅなんだこれくしょん

 少女まんが的な想像力から丹念に抽出された純度の高い「カワイイ」の諸要素たち。それらを、メロディや歌詞、音色といった複数のレイヤーにおいて、輻輳的に編み合わせることによって生み出された「カワイイ」のポリフォニー。そしてその深層において密やかに繰り広げられる、90年代の小室哲哉とはまた別のしかたでのモード(旋法)とコード(和声)の探究。現在、中田ヤスタカが、その掌中に収めつつあるJ-POPの新たな方程式が、楕円とガイコツを越えうるかどうかという点は注目に値するだろう。


[6]Tetsuya Komuro『Digitalian is eating breakfast 3』

Digitalian is eating breakfast 3  (2枚組ALBUM)

Digitalian is eating breakfast 3 (2枚組ALBUM)

 小室哲哉が提示した「Watch the Music」というキーワード。それはまるで、EDMにおいて、 “Electronic”であることよりも、“Dance”であることよりも、“Music”そのものであることの快楽性を追究しようとする宣言のようでもある。中でも、本作の冒頭三曲における、速度に満ちた楽曲展開と予測不能なゆらぎに満ちた音像が織り成す煽情的な高揚感には、通常的なアルバム一枚に匹敵するほどの情報量が凝縮されているといっても過言ではない。本作は、ハードウェアシンセサイザーの臨界点とも呼ぶべき名盤である。


[5]Daft Punk『Random Access Memories』

RANDOM ACCESS MEMORIES

RANDOM ACCESS MEMORIES

 サイボーグたちは「音楽性(=musicality)」の夢を見るか? おそらく、本作におけるピークの一つは、ちょうどアルバムの折り返し点に位置する「Touch」にある。無時間的なまどろみの中に反響するサイボーグたちの声。しかしそれは、未だ音楽的な旋律になりえてはいない孤独な呟きだ。すると次の瞬間、サイボーグたちの音楽的な記憶の連想系が唐突に発動する。音楽性を希求するサイボーグたちが見る無秩序に美しい夢。その極彩色の音の連なりは、私たちが忘れかけていた何かを呼び覚ましてくれるだろう。


[4]Ryoji Ikeda『supercodex』

supercodex

supercodex

 本作を、線形的な音色による線形的な音楽構造の探究である、と要約することは可能だろうか。しかし、その音色や音楽構造における純粋さは、直ちに単純さと結びつくというよりは、むしろ、純粋さの周囲に散乱するある種の豊穣さを露わにするだろう。波形と律動の双方のレベルにおける無数の美しいパターンの集積。そして、その極限的な探究の果てに、粒子状のパルスがドローンの海へと溶解し、そのドローンのうねりの直中からパルスの飛沫が明滅的に立ち現れる瞬間には、人知を超えた崇高さが宿っている。


[3]shotahirama/DUCEREY ADA NEXINO『Just Like Honey

Just Like Honey

Just Like Honey

 shotahiramaによる「Baby You’re Just You」。この楽曲は、およそ31小節と2分の1小節からなる6つのパートから成り立っている。そして、それらは大きく前半の[noise]と後半の[beat]の2つのパートに分かれており、[noise]のパートには[beat]の断片の先触れが現れ、[beat]のパートには[noise]の層の薄膜が回帰するというような、相互に錯綜した構造を呈している。そのため、この楽曲は、まるで浅い眠りの中で断続的に繰り返される不条理な夢のように、意識と無意識の境界を不気味に撹乱しつつ、ある種の不穏さを甘美な陶酔によって蝕んでいく。 一方、 DUCEREY ADA NEXINOによる「Aerial Ambitions」は、密室に吹き荒れる暴風のように美しい。そして、スプリットシングルという形態を選択した本作における聴覚的な快楽性と批評的な快楽性の深度は比類ない。


[2]Keiichiro Shibuya『ATAK019 Soundtrack for Children who won't die, Shusaku Arakawa』

ATAK019 Soundtrack for Children who won't die, Shusaku Arakawa

ATAK019 Soundtrack for Children who won't die, Shusaku Arakawa

 先述の『supercodex』との対比において、本作を、非線形的な音色による非線形的な音楽構造の探究である、と要約することは可能だろうか。『ATAK010/filmachine』に由来する変化と運動に満ちたノイズ。そして、『ATAK015/for maria』に由来する緊張と解放が交錯したピアノの響き。こうした非線形的な音色たちに導かれるようにして生み出された恍惚的な瞬間の連なりは、周期と非周期の間を揺れる非線形的とも呼ぶべき新たな音楽構造の可能性を浮かび上がらせている。その意味で本作は、コンピュータとピアノという二つの異なるテクノロジーが、極めて美しい均衡のもとで結晶した“音楽に祝福された子供”のようなアルバムである。


[1]Keiichiro Shibuya+Hatsune Miku『ATAK020 THE END』

 あるとき渋谷慶一郎は、坂本龍一との間でなされた会話を、次のように述懐している。「20世紀の西洋音楽で残るのはケージ、ノーノ、フェルドマンな気がするという話をしたことがあって僕はそこにペルトの名前を足した気がする」。そして本作は、こうした20世紀音楽の臨界点とも呼ぶべき作曲家たちを同時に乗り越えようとする極めて野心的な試みであったように思われる( 実際、日本人の作曲家がパリのシャトレ座で人間不在のボーカロイド・オペラを上演するというその状況は、ジョン・ケージの「4′33″」以来の音楽史的な事件であったといっても過言ではないだろう)。その音楽的な側面についての詳細な検討は、また別の機会に譲ることにするが、バロック以前からEDMに至る西洋音楽の歴史を、一旦、ベースミュージックという一点で意図的に短絡させた上で、それらをありえないしかたで奇形的に圧縮することによって生み出された楽曲たちは、美しさと醜さの判断をどうでもよくさせる強度に満ち溢れている(そしてそれはどこか劇中の「超生物」のイメージと重なり合う)。おわりのおわりからはじまりのはじまりへの反転。そして、際限なく加速する響きの奔流が、声と言葉が織り成す一本の線へと収束していくその瞬間に立ち現れる陶然とした感覚は筆舌に尽くし難い。

Keiichiro Shibuya『ATAK019 Soundtrack for Children who won't die, Shusaku Arakawa』―音楽に祝福された子供―

ATAK019 Soundtrack for Children who won't die, Shusaku Arakawa

ATAK019 Soundtrack for Children who won't die, Shusaku Arakawa

 本盤『ATAK019/Children who won't die』は、『ATAK010/filmachine』を父とし、『ATAK015/for maria』を母として生まれた“音楽に祝福された子供”だ。つまりここでは、コンピュータとピアノという二つの異なるテクノロジーの可能性が極めて美しい均衡のもとで結晶している。

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 アルバム冒頭を飾る「Reversible Destiny」。右手において繰り返される「D♯-C♯-A♯-B」の四つの音。その旋律を引き延ばしつつ追走し始めた左手は、やがて死の固定楽想「ディエス・イレ(怒りの日)」を想起させる音型(「F♯-E-F♯-D♯-E-C♯」あるいは「A♯-G♯-A♯-F♯-G♯-E-F♯」)を伴いながらゆるやかに螺旋を描いて下降していく。
 緊張と解放が交錯した繊細なピアノの響き。その間隙を縫って不意に立ち現れる変化と運動に満ちた電子音響。こうした要素の官能的な絡み合いから生まれる極めて純度の高い音像は、凄絶な速度で駆動し続ける渋谷慶一郎の自意識と無意識のせめぎ合いを鮮やかに切り取っている。

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 続く「In Memory of Helen Keller」「Architectural Body」。ここでは、周期と非周期の間を揺れ動く精密な音の配置が、反復の直中に漸次的な差異を滑り込ませるといった前世紀的な手法からは遠く離れた、ある種の非線形的な音楽構造を明滅的に浮かび上がらせている。
 機械によるランダムネスとリミッティング。人間によるランダムネスとリミッティング。それらが錯綜する極点において生成された恍惚的な瞬間の連なりは、音楽に残された数少ない可能性の一つを仄めかしつつ、私たちの感情の振幅を宙吊りにするだろう。

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「Requiem for not to die」「Numbers」「Landing Sites」。これら三つの長大な楽曲は、 2010年公開の映画『死なない子供、荒川修作』において、既にその原型となる楽曲が提示されている。そしてこれらの楽曲は、その後、二年程の歳月をかけ、比類なき精度で磨き上げられることになるものの、 2012年以降における渋谷慶一郎の軌跡を予見するかのような重要なフラグメントが予め散り嵌められていたという事実には慄然とせざるを得ない。
「Requiem for not to die」におけるひそやかなピアノと反転されたローズ・ピアノの並置。その協和と不協和の間を移ろう抽象的な響きは、『ATAK017/Sacrifice』『ATAK018/Memories of Origin』に直結する儚さを包容している。また、「Numbers」における静謐な緊張の持続。その互いに干渉することのないピアノや弦の響きの重なりは、『One(X) Cage→Today』におけるナンバー・ピースの同時演奏を想起させずにはおかないだろう。そして「Landing Sites」における非線形的な電子音響と精緻なエディットが施されたマドリン・ギンズの声。その輻輳的な情報のレイヤーが織り成す圧倒的な音響空間は、まさにあのオペラ『THE END』と双児の関係にあるかのようだ。

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 アルバムのラストに配された「Children who won't die」。その冒頭における主旋律の不在。そして程なくして現れるあの「D-F-E-D-F-G」という慈愛に満ちた旋律。たしかに私たちはこの曲を聴いたことがある。しかし同時に私たちはこの曲を聴いたことがない。この曲はおそらく「for maria」の変奏ではない。おわりの音楽のはじまりを告げたあの「for maria」は、「Children who won't die=死なない子供」として産まれ直したのだ。音楽に祝福された子供の誕生。高らかに繰り返されるあの「B-C♯-E-G♯-C♯-C♯」という旋律は、まるではじまりの音楽のはじまりを告げる歓喜の産声のように、私たちの心を穏やかな光で満たすだろう。

shotahirama『NICE DOLL TO TALK』─セカイの音に耳を開く─

NICE DOLL TO TALK

NICE DOLL TO TALK

shotahiramaさんの『NICE DOLL TO TALK』に寄せて2000字程のテクストを書き下ろしました!

http://www.signaldada.org/specialreview.html

CDを聴きながらぜひご一読いただければと思います!