keiichiroshibuy語録 vol.002

2011年6月に東京芸術大学で行われた渋谷慶一郎さんによる特別講義。その模様を文字に起こしてお伝えする第2弾です。今回紹介するパートでは、「3.11以降の音楽」について非常に鋭い論点が提示されており、まさにこの特別講義全体のハイライトとなっています。渋谷さんが様々なメディアで言及している楽曲たちと交差させながら、あるいは、渋谷さん自身の今後の方向性に思いを巡らせながら読み込むことで、きっとたくさんのインスピレーションを得ることができるのではないでしょうか。それでは、どうぞ!
(この特別講義のUstアーカイブはこちらで視聴できます。→http://www.ustream.tv/recorded/15110719

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●3.11以降の音楽
 最近、ループしない構造というものに興味があるんですよ。特に3.11以降になって興味があることに気づいたんだけど…ループしない音楽というのは、僕は第三項音楽でやっていたんだけど、ループしないと曲って認識されないから、ノイズになるじゃない、認識としては。で、それだけ続けていると、やっぱり飽きるんだよ。ヤバイっす、という反応しかないから(笑)。で、ヤバイのはいいんだけど、ヤバイのも慣れてくるとヤバくなくなるからさ。
「Massive Life Flow」というインスタレーションをやっていて、公開制作をしていたんですよ。Ustもして、ギャラリーに10日間通って、グランドピアノもコンピュータもシンセサイザーもあって、とにかく僕は、仕事をしているのを見せるだけ。ショーではなくて。だから10分しかいない人は、僕がメールを書いているのを見ただけで帰る可能性もあるわけ。ということをやっていたときに、コンピュータで作っていると、基本的にループするじゃない。たとえば1秒から10秒ってループさせて、その中で変えていったりとか調整したりするわけだよね。で、DSDも持っていったから、ピアノを即興でブワーッと弾いて、全然使えるレベルで録れるから、とにかく何も考えないで弾いて、ちょっとルールが見つかると、そのルールを深めようと思って、また弾いてということを何回もやって、それはすごくしっくりいっていたわけ。で、これは何なのかなとずっと引っかかっていて、今もコンピュータで作業していると、何かしっくりこないものがある。もっと言うと、音レベルでも、ピアノの音とか、自分で弾けるのはピアノだけだからなんだけど、減衰していくじゃない。「トン」というアタックがあって、減衰していくところにいろんな変化があって、最後に消えていくじゃない。で、そこに繰り返しはない。でも、デジタルで作った音は基本的に反復を含んでいるし、反復を含まない構造のものを作っても、作曲するときは反復させているから。
 これは最近復刊された『WIRED』という雑誌にも書いたんだけど、「終わらない日常」という言葉があったでしょ。日常というものが終わらないものとしてあって、音楽というのは絶対に最初と最後がある。それは、構造的にも一番初めの音があって、何百年かかっても一番最後の音があるというのが音楽じゃない。だから、時間軸に区切りをつけるものであるわけで、聴いている方にとってみれば、曲をかけるというのは、1曲終わったら、何となく一休みしてコーヒーを入れようとかさ、「終わらない日常」に対する句読点になっていたわけじゃない。でも、今の日常は…これは終わるよね、放射能とかたくさんあるし。だって最近、頭痛いしさ(笑)。言ってみれば、日常が終わりに向かっているわけだよね。それは何年レベルのことかわからないけど。でも、日常というものが終わらないものだという認識を持っている脳天気な人はあまりいないと思うんだよね。だから、その終わりに向かっていくスリルというか予測不可能性というか緊張感というのは、ちょっと太刀打ちできないものがあるじゃない。だから、「終わらない日常」に対する句読点としての音楽を作る…ある種の箱庭みたいな完成された音楽を作るというときの態度がすごく難しい。というのは、終わりに向かっていっているものに脳天気に句読点を打っても仕方ないじゃない。だから、どんどん変化していってバサッと終わるとか、そういうものはできるんだけど、ある起承転結性みたいなものというのが、全然できなくなってなってしまって、僕はあまりそういうことに影響を受ける人間ではないから、本当にわからなくて、1ヶ月くらい。何でこんなに下手になったんだろうと思っていて、そうしたらあの「Massive Life Flow」のときに、ピアノの即興とか1音だけ録ってずっと響きを聴いてとかやっていたのは、全部そういうことだなあと合致して、ちょっとびっくりしたんだけどね。ただ、僕は、自分が作ったものを何回も家でしみじみ聴いたりはしないから、それがどういうふうに受け止められるかというのはよくわからないんだけど、少なくとも作っているものに関して、繰り返し構造があって、起承転結性があって、何分なりのまとまりがあって、ということに落とし込むことがここ最近すごく大変で、だから、もっと新しい形式を作らないといけないなと思っているんです。
 フォーマットについて言えば、僕はCDに対する懐疑とかアルバムに対する懐疑というのは、あまりないタイプ。だって簡単に言うと、新しいフォーマットも古いフォーマットも両方やればいいだけでしょ。で、新しいフォーマットだけやっていてもさ、新しいフォーマットが好きな人しか聴かないじゃない。そうするとやっぱり、広がらないから…広がらないというのは自分の名前が広がらないというのではなくて、レスポンスに幅がなくなるから、単に両方やればいいと思う。実際、僕は高音質配信を早い段階で始めているし、今もやっているけど、でも、CDのよさというのはあるからね。物を持ちたいみたいな欲求は絶対に人にはあるから。津田大介さんとも話していたんだけど、二人とも配信とかそういうことをよく言っているけど、CDというこの物体にもしかしたら何かあるのかもしれないと。アナログは、僕はそんなに好きではない。いや、音がいいのはよくわかるんだけど、そのエステティックというか美学というか。レコードのジャケットに愛情があるという世代ではないから。レコードのジャケットに愛情がある人がそういうことを言い続けるのはわかるんだけど、何かそこに戻って、アナログを買ったりという趣味はまったくないね。あとは、でかいものが嫌いだし。ATAKでは、アナログでリリースしようと思ったことは1回もないんだよね。アナログの方が音がいいとは僕も思うんだけど、ファイルというか配信はありなんだけど、CDの音がよくないからアナログに戻ろうというのは、携帯で話していて、ちょっと音が悪いから親機でかけ直すと言っているようなものだと思う。で、そんなことはしないじゃん、日常で。だからこれは、進化の過程としてスムーズじゃないの、僕にとって。だって、DSDのファイルの方がアナログよりも音がいいし。だから、「新しい」と「古い」だったら、とりあえず僕は新しい方が好き。
 インスタレーションは面白いと思っていて、頼まれることが結構あって、美術館もあるし、もっと公共的な場所もあるんだけど、音を使わないインスタレーションというのもやろうとしているんです。今やろうとしているというか、思いつきで言っていたのは、公共的な場所ってすごくうるさいじゃない。そこで、大してよくもないスピーカーをいっぱい並べて、何かわけのわからない音を出すということをやっても、かき消されるでしょ。それはあまりよくないなあと思っていて。あとは、音が多すぎるということに対して僕は辟易しているところがあるから。で、何かを見て音楽が浮かぶということがあるじゃない。実際、それが音のデータだったりすることもあるし、そうじゃないアトラクターみたいなものだったりすることもある。だから、見て音楽が感じられるようなものだったら…いや、それは神秘的なものじゃないよ、「あっ!あっ!」とかいうものじゃなくてさ(笑)、音楽的なあるマテリアルだとか、僕が音楽をやる中で通過しているものなんだけど、それを作って、実際にピアノ線が材料だったりするから、少し音はするんだけど、でも、公共的な場所でそんなか細い音に耳を傾けてくださいなんてノリは僕はあまり好きではないから、聴きたい人は聴けばよくて、基本的にはもう造形物というかオブジェみたいなもので、それである音楽的なインスパイアがあったら、前にもよく言っていたけど、頭の中で鳴っている音が一番いいし、ノイズキャンセルされているし、純度が高いから、そういうものは可能性があるなと思っている。やっぱり、音ってスピーカーから出た時点で負けちゃうことが結構あって…たくさんスピーカーを使ってやるインスタレーションも僕のメインの仕事なんだけれど、それとは別に、スピーカーを通さない音とか、音すらないとか、というのも少しずつやり始めている。
 たとえば、すごく広い空間にピアノが1台置いてあって、ポンと弾くとさ、やっぱりいい状態のときは、その音に驚くことがある。でもスピーカというのは、ある種のファクターだから、そこを通るとスピーカーの音がするじゃない。スピーカーが振動しているから。それは当たり前の話なんだけど、ある種の一様さを持ってしまう。だから、点音源というのは少し可能性があるなと思っているんだけど、ミニマルな意味ではなくてね。

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次回は「質疑応答」のパートをアップする予定です。お楽しみに!