Thurston Moore『demolished thoughts』

Demolished Thoughts [輸入盤CD] (OLE9532)

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実のところ私はソニック・ユースのアルバムもベックのアルバムもこれまできちんと聴いた経験がない。そんな私がこのサーストン・ムーアのソロアルバムに興味を持ったのは、リリース前からツイッターのTL上で、しかも普段はあまり接点の薄いクラスタに属する人たちの間で、じわじわと同時多発的に話題となっていたからだ。そして実際にこのアルバムを聴き進めるうちに、その中に潜む音楽的/音響的な奥深さにすっかり魅了されてしまった自分がいることに気づいた。

まずこのアルバムを一聴した際に連想されたことは、90年代半ばごろにおけるカヒミ・カリィのラジオ番組で「最近のお気に入り」として紹介されていたような楽曲たちを彷彿とさせるということであり、それは具体的には“ロケットシップ”や“ハイ・ラマズ”や“ステレオラブ”などにおけるいくつかの楽曲たちを指している。したがってその音楽的側面に着目するとすれば、本作には渋谷系周辺あるいはトラットリア周辺のムーブメントが成熟し、新たな一歩を踏み出そうとする瞬間のあの混沌とした輝きを凝縮したかのような魅力が詰め込まれているようにも感じられる。

しかしその音響的側面に着目するとすれば、その印象はそうした郷愁とはまた大きく異なったものとなる。収録された楽曲においてそのアレンジの中核をなすのは、サーストン自身によるボーカルとアコースティックギター、そしてベースの三つの要素であり、そこにバイオリンやハープのフレーズが適度に複雑な色彩感を加えている。そしてドラムやパーカッションの存在感は極めて希薄であり、うっかりすると「あれ?このアルバムってドラムレスだっけ?」といった錯覚に襲われそうになるほどである。しかしその一方で、この極端に存在感の薄いパーカッションこそが本作の音響的魅力を生み出す要因の一つにもなっている。

先述のように本作のアレンジは、ボーカル、アコースティックギター、ベースの三要素によってほぼ完結している。そしてここで重要なのは、ギターのピッキングノイズやベースのアタックノイズまでもがある意味でパーカッション的に前面に押し出され、それらがすでに複雑なグルーヴを生み出しているという点である。では実際のパーカッションはといえば、それらギターやベースが発するノイズに半ばマスキングされているかのような音像になりつつも、むしろそのことによってこそノイズとの心地よい一体感を形成し、これまでに経験したことのない音響的魅力を提示することに成功している。

私は90年代半ばにおける“ロケットシップ”や“ハイ・ラマズ”や“ステレオラブ”のアルバムを十数年経った今でも愛聴している。そしてこれらのアルバムのように、このサーストン・ムーアのソロアルバムを十数年後も愛聴し続けるだろう。

TKポリフォニー/即興性が生み出す偶発的快楽

小室哲哉によって生み出される音楽の魅力を、彼自身による「アレンジ」と切り離して考えることは難しい。その魅力について語る上で、まず坂本龍一による次のような発言を導きの糸としたい。

 それって、そういう楽理をまったく知らないブライアン・イーノたちが始めた響きなんだよね。「ドミソ」と鳴ってるんだけど平気で上にファがくる。…和声の重力でいったらたとえ下にミがあっても、ファはどうしてもその重力に引っ張られて、ミに解決してほしいわけ。だけどあの人、しないんだよね(笑)。さらに平気でファがソに行っちゃったり…。
 …でも、その響きがイーノだよね。恐らく、あれは多重録音のせいもあってそうなっている。最初にコードだけ録音して、その後からまた違うシンセか何かを、メロディらしきものだったりを適当に弾くじゃないですか。それでぶつかっているだけなんだけどね。(坂本龍一『/04 オフィシャル・スコアブック』)

 …イーノの場合はバラバラに録ったものをカシャッて合わせたりするから。まあメロディで動いているのと、電気ピアノとかで弾いたハーモニーが偶然こういうふうに[「ソシレ」の中で3度のシと4度のドが同時に]重なっちゃう、ということなんですけどね。(坂本龍一『/05 オフィシャル・スコアブック』)

ここで坂本龍一は、彼が「イーノ・コード」と呼ぶ、ある種の不協和音について語っている。「イーノ・コード」とは、ある和音の中に解決されるべき不協和音がすでに混入し、その結果として不協和から解決へと向かう力学が無効化された響きを指している。その意味でこの「イーノ・コード」は楽理的には端的に誤りである。しかしそこには抗し難い魅力が潜んでいることもまた事実である。

 最初はすごい抵抗があるわけじゃないですか。ところが、だんだん好きになってきちゃって(笑)、OKになってきちゃって。
 …短9度[たとえばシとドが同時に響くような不協和音]というのが好きになってきて、しかもその短9度が半音でずり落ちて解決しない動きも好きになってきて…随分変わってきたんですよ、僕。以前だったら絶対許さなかったんだけど。
 …これって、「ド」がなければ普通の「ソシレ」でしょ。ついでにナインスとか入れるとこうなっちゃって、最近、好きなやつね。わざと短9度にして…間違い(笑)。すごい間違いなんだけど(笑)、恐ろしくて最近までできなかった。すごいことだ。(坂本龍一『/04 オフィシャル・スコアブック』) 

そもそもこの「イーノ・コード」という着想は、多重録音的な手法から偶発的に生み出された響きから得られたものだ。そこで本記事では、この「イーノ・コード」という着想を、「一つの魅惑的な響き」といったその本来的な意味合いから些か拡張させ、「ある種の偶発性が生み出す音楽的力動」として捉え直すことで、小室哲哉による音楽の魅力を語る上での足がかりとしたい。

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89年にリリースされた『Digitalian is eating breakfast』。本格的にシンクラヴィアを導入したことで知られるこのアルバムは、リリースから20年以上経つ現在においても、極めて未来的な音響美を誇っている。そしてこのアルバムにおいては、それ以後生み出されることになる数々のヒット曲にもつながる、彼の音楽的な魅力がわかりやすいかたちで現れている。

このアルバムに収録されたいくつかの楽曲を聴き、まず耳にとまるのは、ドラム、ベース、リフ、シーケンスといったあらゆるパートにおいて、周到に、そして半ば偏執的に「繰り返し」が避けられているという点である。こうした音楽的特徴について小室哲哉は、95年になされた坂本龍一との対話の中で次のように語っている。

…僕なんかが、遅ればせながらって感じで、ループのリズムをやったのもここ5年くらいですかね。…それまではイントロからエンディングまでずっと打ち込んでたんですよ。
…自分をドラマーと思ってですね、まずはハイ・ハットを入れて、次はスネアとか。ま、今でも、そういう方法でやってるとこもありますけど。(『小室哲哉音楽対論 Vol.1』)

89年の小室哲哉は、まだ「ループ」という手法と出会ってはいない。そしておそらく、ドラムをはじめとする各パートは、イントロからエンディングに至るまで多分に即興的な要素を織り込みつつ打ち込まれていた。さらにそこには、リアルタイム入力に由来する、タイミング、ベロシティ、デュレーションなどにおける「ゆらぎ」までもが積極的に含み込まれている。

こうした微細なゆらぎを含みつつ徹底して繰り返しが避けられた各パートが重ね合わされた瞬間に生み出される、ある種のポリフォニックな音楽的力動こそが、小室哲哉の音楽的魅力の一つをなす重要な要素といえるのではないだろうか。そしてこの「TKポリフォニー」とも呼ぶべき音楽的力動は、バックトラックのレベルにおいても存分に発揮されているが、その上にボーカルやコーラスが重ね合わせられることにより、さらに増幅される。

山下邦彦による『楕円とガイコツ』においては、小室哲哉の音楽的魅力が、主にコードとメロディのぶつかり合いという観点から分析されている。そしてこれらは小室哲哉による「アレンジ」─すなわち即興的に生み出された各パートのぶつかり合い─をも視野に入れつつ分析を進めることにより、その核心に迫るための新たな可能性を切り拓くことにつながるのではないだろうか。

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小室哲哉がリアルタイムで打ち込むドラム、ベース、リフ、シーケンスといった各パートは、ある部分でキース・ジャレットの即興演奏にも似た官能性を有している。そしてそれらがブライアン・イーノの多重録音のように、半ば意図的に楽理を無視しつつ重ね合わされた瞬間に、名状し難い偶発的な快楽が生み出されることになる。その意味で小室哲哉の音楽的な魅力は、彼が敬愛する二人のアーティスト─キース・ジャレットブライアン・イーノ─が複雑な経路を経て交差した地点において現れる奇跡的な瞬間の連なりにあるということもできるだろう。また、小室哲哉と他のアレンジャーを分かつ決定的な差異があるとすれば、その原因は、おそらくこの「TKポリフォニー」の有無にこそ潜んでいる。

UTAUツアー仙台公演/UST配信の贈り物

2005年12月25日。
クリスマスの日に聴いた「戦場のメリークリスマス」。
これは何とも忘れがたい思い出だ。


この日は、妻と二人で坂本龍一のソロピアノコンサートを観に来た。
そして妻のお腹の中には、妊娠4ヶ月を過ぎたころの息子もいた。
微かな胎動が感じられるようになっていた時期だ。


アルバム『/04』『/05』からの楽曲を中心に、過去の名曲たちも織り交ぜられた最高のプログラム。
教授の奏でるピアノの響きはいつものようにこの上なく美しい。
まさに至福の時間が流れていく。


そしてアンコールに差し掛かろうとしたその瞬間。
会場の暖房のせいだろうか。「暑い…」とぐずる子どもの声が後方から聞こえてきた。
父親は「シーッ!」とその子どもに静かにするよう何度も促している。
一瞬、コンサートの流れが途切れてしまいそうになる。
すると教授はその声の方を見やり、おもむろに「Aqua」を弾き始めた。
どこまでも穏やかなピアノの音色。
そこには、すっと暑さが引いていくような不思議な感覚があった。
これはとても印象深い場面だった。


コンサートの帰り道に考えてみた。
おそらく自分も、これから生まれてくる息子と一緒に、教授のコンサートを観に行きたいと思うだろう。
その際、息子がぐずり始めたとして、潔く席を立つことができるだろうか。
いや、その瞬間しか聴くことのできない音を前に、それは難しいかもしれない。
とすれば、息子が小さいうちに、コンサートへと連れて行くのはあきらめた方がよい。
当時はそのように考えていた。


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それから5年後。
あのころお腹の中にいた息子はもう4歳だ。
そして教授は、北米ツアーからUTAUツアーに至るまで、その模様を毎回のようにUSTで中継していた。


UTAUツアーが仙台にやって来ることは知っていた。
教授の生の演奏を聴くことができる久しぶりのチャンスだ。
しかし、子どもたちはまだ小さい。
今回は行くことができないだろうと初めからあきらめていた。


子どもたちと視聴するUST配信は、どれも楽しい経験となった。
北米ツアーでの超高音質の中継に驚きながら、一緒にたこ焼きを食べていたこともあった。
せっかく楽しみにしていたのに、序盤の「hibari」にやられて眠りに落ちてしまったこともあった。
また、UTAUツアーでの教授による一人USTを、回線が途切れはしないかとはらはらしながら見守っていたこともあった。


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2010年12月10日。
UTAUツアー仙台公演の9日前。
天からの啓示があった。
新聞広告からチケットに余裕があることわかった。
年齢制限が特にないらしいということもわかった。
そして息子がこうつぶやいた。
「ぼくも行ってみたい」
これまで何度か教授のUST配信を視聴する中で、息子も次第に興味を持っていたらしい。
急いでコンビニに向かい、二人分のチケットを手に入れた。


たしかに5年前、小さい子どもをコンサートに連れて行くのはあきらめた方がよいと考えた。
しかし今は違う。
もし息子がぐずり始めたとして、躊躇せずに席を立つことができるだろう。
それは一連のUST配信が与えてくれた「勇気」のようなものだ。
かくして私は、息子とともにUTAUツアー仙台公演に参戦することとなった。


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2010年12月19日。
少し早めのお昼寝と軽い食事の後、息子と二人で会場へと向かった。


お互いに期待と不安を抱えつつ座席に着く。
PA席のすぐ後方のあたり。
なかなかよい場所だ。


そして開演。
さすがに真っ暗なホールの中で、息子もきょろきょろと落ち着かない。
しかしここは焦らず慌てず、何かあれば会場から出ればよいと覚悟を決めた。
教授のピアノ。
大貫さんの歌声。
二人の軽妙なMC。
次第に息子が惹き込まれていく様子がわかる。


途中、教授のソロピアノのあたりで、トイレに行きたいと言い出し、一度ホールの外へ出た。
そのときに演奏されていた曲は、あの「Aqua」だ。
「この曲、お腹の中にいたときに聴いたことあるけど、おぼえてる?」
「おぼえてないけど、この曲は好き」


その後、再び座席に戻ってからは、息子も私もいたって自然にコンサートを楽しむことができた。
これまでのUST配信に後押しされ、会場に足を運ぶことができ、本当によい思い出となった。
そしてお互いに大きな満足感を感じつつ会場をあとにした。
これはまさに、UST配信の贈り物だ。


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息子は次の日、コンサートに行ったことを保育園で自慢してきたたらしい。
初めて行ったコンサートが坂本龍一大貫妙子の共演だなんて、わが子ながら本当にうらやましい。


坂本龍一のUST配信がもたらした社会的インパクトは多岐に渡る。
しかし、こんなごく平凡な家庭にもささやかな勇気と大きな感動を与えてくれたということをここに記しておきたい。

坂本龍一/UST配信がもたらす聴取体験の変容

北米ツアーに始まり、UTAUツアーを経て、韓国公演へと結実した坂本龍一のUST配信。この一連の試みが社会的に与えたインパクトは多岐にわたるが、それらについて論じるのは他の方々にお任せすることにして、このブログでは、例によって私的な体験を拙い文章で書き連ねていきたいと思う。

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坂本龍一のライブをほぼ毎回のようにリアルタイムで視聴できるというのは何と贅沢な体験だったのだろう。これは、CDやDVDの視聴とは明らかに質の異なる画期的な出来事だった。そして、おなじみの名曲の数々を、各公演での演奏を通して繰り返し聴き続ける中で、坂本龍一があるインタビューで語っていた次のような言葉がふと頭をよぎった。

 あの『CASA』をジョビンの家で録音しているときに、息子のパウロが言ったひと言が、もう、ちょっと一生忘れられないような言葉なんですけど。「親父は、どんな曲でも、今その瞬間、作っているように弾いてた」って言うわけ。音を探りながらね、一瞬一瞬、今作っているかのように弾く、そんな弾き方だって。
 …そこにまあ、僕も近づきたいなと思うんですけど。
 …つまり、曲を作るときというのは、ためらいながら行ったり来たり…何か音を試して…逡巡しながら行くでしょ?その逡巡する、ためらうというところが大事なような気がするんですよね。
 …もう一瞬一瞬ためらっているわけですから、どうなるか分からないわけだから。(坂本龍一『/04 オフィシャル・スコアブック』)

そう、この一連のツアーとそのUST配信の中で坂本龍一によって奏でられたピアノの音は、たしかに「今その瞬間に作っているように弾く」ということを強く感じさせるものであり、公演ごとに微妙に異なったハーモニーが試されることもあれば、同じハーモニーであっても、そのタッチに繊細かつ大胆な変化が加えられることもあった。ときに、唐突に訪れる長大な即興演奏やある会場でのみ特別に演奏された楽曲に驚きと喜びを感じつつも、本当の意味での「サプライズ」は、幾度となく演奏される楽曲に織り込まれた微細な差異にこそあるように感じられたのだ。そしてこれは、私の中で、それまでとは大きく聴取体験が変容した瞬間でもあった。

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坂本龍一は、また別の場所で次のようにも語っている。

 いくら愛しているジョビンの曲とはいえ、毎晩のように同じ曲をやるのは結構飽きてたんだよね。ところが、ニューヨークが終わってロンドンへ行って演奏した時…音楽の理解というよりかは、自分が潜在的に持っている音楽的な「感情の深さ」、「深度」がガクッと深まる経験があったんだよね。…「悟り」に近いんだろうね。…同じように存在してても、違う理解に到る。
 
 そのようなことを経験できる音楽がね、古典というものの条件だと思う。…ジョビンの音楽というのは、たった今「古典になろうとしてる過程にある音楽」なんだ。
 
 ジョビンの音楽のその音でできることって、全部わかったつもりになってた。でも実はちょっと向こうにいるんだよね。…少し象徴的に言うと、音で詩をつくるみたいにさ、ドビュッシーマラルメみたいなことを音でやったらどうなるかって。…あるひとつひとつの和音のつながりというものは、すでにあったものだったりする。だけど、シュールリアリズムじゃないけど、まだ発見というか、まだ向こうがあるってことが見えてきたっていうか……。(坂本龍一後藤繁雄『skmt2』)

ジョビンの曲を演奏し続ける中で坂本龍一が到達した「悟り」にも似た音楽的深度の深まり。それはつまり、もうすでにわかりきったと思っていたところに、実はその向こう側があるということを発見する喜びでもある。そして今回のUST配信を通して坂本龍一が我々に伝えたかったことの一つは、実はこうした「音楽的深度への気づき」なのではないだろうか。

たしかに、坂本龍一はこれまで、ライブ音源を数日のうちにiTunes Storeで配信するということを試みており、そこにも「音楽的深度への気づき」を喚起しようする意図があったと考えることができる。しかしそこでは、仮に全公演の音源を入手したとしても、ライブ特有の経験の一回性がぎりぎりの地点で弱められてしまい、よほど熱心なファンでもない限り、そうした「悟り」にも似た境地に到達することは難しかったのではないかと思われる。

そして今回のUST配信である。ここでは逆に、ライブ特有の経験の一回性がぎりぎりの地点で保持されており、そのことによって「音楽的深度」への注意はより高められた状態となるだろう。そして、坂本龍一がそれぞれの会場の空気やそのときの精神状態などに応じて「今その瞬間に作っている」ようにピアノを奏でる。我々は時間的な都合が許す限り、その創造の瞬間に立ち会い、毎回のように視聴することもできる。こうした経験を繰り返す中で、「初めて聴くように聴く」といった感覚を次第に研ぎ澄まし、それぞれに「音楽的深度の深まり」を体感することにつながったのではないだろうか。

坂本龍一によるUST配信がもたらしたものは何か。その一つは我々の聴取体験の変容あり、ある楽曲に潜在する様々な可能性を聴き取ることの喜びであったと思う。そしてこの一連の経験は、「音楽の奥深さ」をまた別の視点から伝えているという意味で、どこか坂本龍一による『スコラ 音楽の学校』の壮大な特別集中講義であったようにも感じられるのだ。

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昨年末に参戦したUTAUツアーの仙台公演については、また別の機会に書きたいと思います。
あまりこまめに更新できない時期もありますが、マイペースで頑張ります!

ラヴェル/冨田勲/テクノポップ

学生時代、坂本龍一が言及している作曲家、編曲家、演奏家の作品を聴き、その中に坂本龍一的な響きを見つけては一人喜ぶといったようなことばかりしながら過ごしていた時期があった。

その探求の初期段階で、一聴した瞬間に虜になってしまったのは、フランス近代音楽の巨匠、モーリス・ラヴェルの作品だ。初めて『クープランの墓』の「前奏曲」を聴いたときの衝撃は今でもよくおぼえている。明晰かつ論理的に積み重ねられた色彩豊かな響きの眩暈がするほどの連鎖。そしてその背後にはどこかマシニックなビートさえ感じ取れる。

ラヴェルの作品は、ピアノ曲管弦楽曲もどれも本当に美しいものばかりだが、当時、特に気にかかった曲は『マ・メール・ロワ』の「パゴダの女王レドロネット」だ。印象派的な浮遊感のある和声の上で東洋的な旋律が跳ね回るその様は、まるで初期YMOの楽曲のようでもある。

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その後、小室哲哉のルーツを探るべく冨田勲のアルバムをチェックしていた時期に、『ダフニスとクロエ』というラヴェルの作品を録音したアルバムがあり、そこにはあの「パゴダの女王レドロネット」も収録されていることを知った。

ダフニスとクロエ

ダフニスとクロエ

周知のように、これらの楽曲はすべてシンセサイザーを用いて編曲されているため、ここでは原曲が持つ「テクノポップ度」が格段に際立っている。おそらく、同時代のクラフトワークの作品と並べて聴いたとしても、何の違和感もないのではないだろうか。そして、この冨田勲によるラヴェル「パゴダの女王レドロネット」は、いつかどこかでDJをする機会があればかけてみたいと密かに思っている一曲でもある。

TKフィルター/記憶から紡ぎ出される音たち

小室哲哉は87年のある雑誌アンケートで「人生のベスト・アルバム」として以下の5枚を挙げている。

ムソルグスキー展覧会の絵
メンデルスゾーン「バイオリン協奏曲」
ホルスト「惑星」
キース・ジャレット「フェイジング・ユー」
ELP「恐怖の頭脳改革」

この5枚のアルバムから様々な「音楽地図」を描くことが可能であると思われるが、まず今回注目したいのは、ムソルグスキーELPを結ぶラインである。というのも、ELPは、その名も『展覧会の絵』という、ムソルグスキーの楽曲をモチーフとした名盤を残しているからだ。そして小室哲哉は、ELPのキーボディストであるキース・エマーソンをリスペクトしてやまないということを様々な場所で語ってもいる。

このムソルグスキーからELPへ至るラインから連想されるのは、07年に発表されたTM NETWORKのシングル『WELCOME BACK 2』のカップリングとして収録されたあるインスト曲だ。

Welcome Back 2

Welcome Back 2

そのインスト曲のタイトルは「MEMORIES」。クレジットに「作曲:モデスト・ムソルグスキー小室哲哉」とあるように、そこでは、「展覧会の絵」に触発されつつ、しかし、ムソルグスキーとも小室哲哉ともつかない旋律が、トランスを通過したきらびやかなシンセの音色とともに清々しく奏でられている。

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小室哲哉の楽曲の魅力を語る上で重要な要素となるのは「記憶」ではないだろうか。たとえば、彼のある著作には、次のような記述が見られる。

 先日、ロンドンのクラブで聴いた曲がよくて、その系統の音を作ろうとした。そのときも、あえてCDを聴くところから始めず、自分の記憶のなかで鳴っている音をかみ砕き消化することからスタートした。これも意図的な遠回りである。
 …面白いことにCDで聴き直した音よりも、記憶の中でなっている音の方が圧倒的に魅力的なのである。
 だからこそ、自分なりの新しい音が生まれるのだろうし、誰も聴いたことがないほど新しい音になる可能性があるのだろう。(小室哲哉『告白は踊る』)

たしかに、ユーロビートの影響から「COME ON EVERYBODY」や「DIVE INTO YOUR BODY」が生み出され、ハードロックの影響からアルバム『RHYTHM RED』が生み出され、ハウスの影響からアルバム『EXPO』のいくつかの楽曲が生み出されたことを考えると、そこには「TKフィルター」とも呼ぶべき、決して一筋縄ではいかないある種の強力な変形装置が作動しているかのようにも感じられる。そしてこの「記憶を介した意図的な遠回り」こそが、彼のクリエイティビティやオリジナリティの源泉となっているのではないだろうか。

先のインスト曲「MEMORIES」も、そのタイトルが示しているように、おそらくムソルグスキーELPを聴き直すことなく、「記憶」を頼りに紡ぎ出された音なのだろう。07年にリリースされた一枚のシングルにひっそりと収録されたこの小品にこそ、小室哲哉の魅力の一つである「TKフィルター」が、わかりやすいかたちで立ち現れている。

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ブログを始めて以降、なぜか小室哲哉の話題ばかり書いているような気がする。その理由は自分でもよくわからないが、昨年末あたりに、突然、小室哲哉の楽曲の魅力を再発見したことが大きいかもしれない。とはいえ私は、小室哲哉の音楽ばかり聴いているわけではない。しかし、小室哲哉を介して様々なジャンルの音楽を捉え直してみるというのも、なかなか面白い試みではないかと思い始めている。

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[追記]
ムソルグスキー展覧会の絵」とホルスト「惑星」を結ぶラインからは、「冨田勲」の名を導き出すこともできる。とすると、「MEMORIES」は、ムソルグスキーELP冨田勲といった、小室哲哉が敬愛する音楽家たちの記憶が不意に結晶化した、思いのほか重要な作品であるといえるかもしれない。

ポップアナリーゼ

『思想地図β』に収録された菊地成孔佐々木敦渋谷慶一郎による座談会「テクノロジーと消費のダンス」の中で中心的な話題となっていた「ポップアナリーゼ」という言葉が最近気にかかる。

「ポップアナリーゼ」とは、文字通り「大衆音楽(ポップス)の楽曲分析(アナリーゼ)」を意味しているが、この座談会の中では「アナリーゼの大衆化」、さらには「大衆によるアナリーゼ」といったものを含めた広い射程のもとで用いられているようにも感じられた。

菊地成孔は、音楽批評の次の(あるいは別の)段階として、「アナリーゼ」が残されているとした上で、次のように述べている。

「ゼロからやればいいと僕は思っています。楽譜を読むことや調性原理なんて高校の数学と比べてもたいして難しくないんですから。いま僕がフジテレビのONE TWO NEXTで大谷くんとやっている「憂鬱と官能を教えたTV」という番組は、鍵盤を始めて触ったような人に、ドレミから始めて、ポップアナリーゼができるようになるまでをバラエティとして見せるということをやっています。それを大きなメディアでやれば一年で定着できるでしょう。それが世の中を変えるとは露とも思いませんけれど、できることはあると思っています。」

ここで言及されているテレビ番組のモチーフとなっているのは、菊地成孔大谷能生による共著『憂鬱と官能を教えた学校』だ。

憂鬱と官能を教えた学校

憂鬱と官能を教えた学校

この書籍は、「バークリー・メソッド」をベースに20世紀の音楽を俯瞰する中で、調性や和声についての理論をユーモアを交えつつ刺激的に解き明かしたもので、今後、「ポップアナリーゼ」の基礎文献となりうるであろう重要な著作である。

さて、こうした読解の格子を身につけた上で行われる「ポップアナリーゼ」が浸透したとして、先の座談会における渋谷慶一郎による次のような発言は示唆的である。

「僕は批評はまず創作に対して刺激的にならないと意味がないというプラトニックな感情を持っています。そして批評した対象にその批評が届くかどうかという力のバランスにもっと敏感になるべきだと思います。」
「批評というものに最終的に意味があるとしたら、次の創造を生むかどうかということだと思います。」

音楽批評の次の段階としての「ポップアナリーゼ」。そしてそこから、次の創作につながる言葉を紡ぎ出すことはできないだろうか。そんなことをふと頭の中に思い描いた。

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「ポップアナリーゼ」といえば、山下邦彦による『楕円とガイコツ』もその一つのモデルとなりうるのではないだろうか。

楕円とガイコツ

楕円とガイコツ

この著作では、「ダエン(ドとラという二つの中心を同時に持つような音楽的特徴)」と「ガイコツ(4度音程を基調とした旋律)」という二つの分析装置をもとに、小室哲哉坂本龍一の楽曲を行き来しつつ、その音楽的魅力が非常にスリリングに語られていく。

たとえば、この本の中では、globeの「Freedom」について次のような分析がなされている。 

 そして、サビのクライマックスで、すごいメロディーが出てきます。
 ♪ラドレミ〜、というメロディーなのですが、なんとそこで鳴っているコートはGなのです。
 Gのコードの構成音は「ソシレ」。それに対してメロディーは「ラドレミ」。コードからズレるといっても、これほど激しくズレているメロディーは聴いたことがない、というくらいズレまくっています。
[…]
 小室哲哉のマネをしようとする人は、こういうところで、きっとコードにメロディーを合わせてしまうのです。…
 …ここでは「Gに対してさえ、ラドレミというメロディーの傷の深さ」にぶちあたります。…
 そして、その傷のようなメロディーで小室哲哉が発している言葉は「か・ん・じ・る」という4文字でした。

自分が魅力的だと感じる楽曲を、基礎的な音楽理論をもとに平明に分析すること。そしてそれが、専門家によるアナリーゼではなく、大衆によるアナリーゼだとしても、次の創造につながる言葉を紡ぎ出すことができるかもしれない。こうした、いわば「ポップなアナリーゼ」にも、このブログの中で挑戦していけたらと思う。

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このブログ、次第に「字数を気にしないツイート」のようになりつつありますが、まずはゆるゆると続けていきます!