渋谷慶一郎 feat.太田莉菜の『サクリファイス』はなぜかくも中毒的なのか?

サクリファイス

サクリファイス

渋谷慶一郎は様々な媒体を通して「3.11以降の音楽」をめぐる刺激的な考察を断続的に提示している。その内容を些か暴力的に整理するとすれば以下のように要約することができるだろう。

音楽には始まりと終わりがある。その意味で音楽は「終わらない日常」に対する句読点のようなものだ。しかし日常が終わりに向かうことが前提となった今、新しい音楽形式の可能性が追求されなければならない。そしてそれは単なる反復構造や起承転結性を越えたものとなるだろう。とはいえ完全におぼえられないような音楽は、その認識としてノイズとなってしまう。したがってその新しい音楽形式の可能性の一つとしては、ときに再帰性不定期に訪れ、ときにその完結性が変形されつつも、そこに直接記憶にアディクトするようなフラグメントを忍び込ませたようなものが考えられるのではないか。

そしてこの『サクリファイス』には、こうした「3.11以降の音楽」をめぐる一連の思考の軌跡が極めて高い密度で収束している。

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サクリファイス』はなぜかくも中毒的であるのか。その秘密の一端はおそらくその楽曲構造にある。つまりこの楽曲は、どのメロディがサビであるのか明確に画定することができない構造になっている。そしてこのことは同時に、すべてのメロディがサビとして認識されうる可能性を持っているということを意味している。

この楽曲の大まかな構造を示すとすれば以下のようになるだろう。

(A)→A→B→(A)→A→C→A'→B'→D

ここで(A)はAメロをもとにした前奏と間奏を示している。またA'とB'はそれぞれAメロとBメロのバリエーションを示している。

おそらく一般的な感覚としては、転調を含んだ長大なメロディCがこの楽曲の一つのピークとなっていることは疑いえない。では、このCがサビなのかといえば、続くA’では鮮烈なシンセパッドの音色とともにあのAメロが目も眩むほどの高揚感を伴いながら再び現れ、さらなる高みへと上り詰める。さらに、続くB'では、名状し難い解放感とともにあのBメロがその本来の姿を露わにしつつ、過剰に中毒的なフレーズをたたみかける。とすると、この「A'→B'」こそがサビであり、実は冒頭の「A→B」は“サビ頭”のような構成になっていたのではないかという思いがよぎった瞬間に、まるで不意打ちのように安らかな印象を伴った新たなメロディDが現れ、「さよなら もう 終わり なの」という言葉の破片とともに“永遠”と“切断”の境界を宙吊りにしたまま、甘美な余韻を残して終結する。

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もしここで、「(A)→A」を一つのまとまり「A」と捉えたとすれば、この楽曲の隣り合うメロディは、「A→B」「B→A」「A→C」「C→A'」「A'→B'」「B'→D」となり、どの部分を切り取っても反復を含まない構造になっている。

また、この楽曲のバックトラックに着目したとすれば、そこではドラムやベースをはじめとした各パートにおいて、先鋭的な複雑さとともに周到に反復が回避されていることがわかる。

そしてここで重要になるのは、単にある種の反復性や起承転結性が退けてられているということではなく、そうした反復を含まない構造の中に、直接記憶にアディクトするようなフラグメントが散りばめられているということである。つまり『サクリファイス』が持つ過剰な中毒性は、反復を含まない楽曲構造とバックトラックの中に、聴き手の記憶に直接アディクトするような旋律や和声や律動や音色を忍び込ませることによって極限までに増幅されている。

では、その旋律や和声や律動や音色には一体どのような秘密が隠されているのか。その秘密を一つ一つ追い求めるかのように、また私たちは『サクリファイス』に収められた四つのバージョンをリピートし続けることになるのだろう。

[追記]
なお、『サクリファイス』に現れるA、B、C、Dの四つのメロディにおいては、それぞれその冒頭にⅣ△7(あるいはⅣ△9)が配されているという特徴がある。とすると、その一つの響きをフックとしつつ、そこから四種類のメロディが脳内で再生される可能性が生まれる。そしてこのことはおそらく、先述のような反復を含まない楽曲構造と結びつくことにより、記憶の中で無数のメロディの組み合わせを生成することにもつながりうる。こうした点も、この楽曲が持つ中毒性の要因の一つと考えることもできるかもしれない。

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実は、この『サクリファイス』に関連した「何度も繰り返し聴きたくなる曲の作り方」については、渋谷慶一郎さんによるメルマガ『Vacuum』のVol.010の中で、このブログ記事とはまた異なった視点から非常に明快な言葉で語られていますので、そちらもぜひお読みいただければと思います!
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TKスタディーズ001 - 中森明菜 『愛撫』

今回より「TKスタディーズ」という試みを不定期で行っていきたいと思う。ここではその名のとおりTK=小室哲哉の楽曲分析を通し、その魅力の一端に迫ることを目指している。とはいえ私は正式な音楽教育を受けた経験はない。したがってその内容には誤りが含まれることも多々あるだろう。しかしこれまでそのセールス的な成功に反して正当な音楽的評価を受けてきたとは言い難い小室哲哉の楽曲たちに、ささやかではあれ新たな光を投げ掛けることには少なからず意味があると感じている。そしてそこに隠された「音楽の秘密」を一つでも多く見つけ出すことができれば…そんなことを考えている。「TKスタディーズ」の世界へ、ようこそ!

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今回取り上げるのは93年にリリースされた中森明菜のアルバム『UNBALANCE+BALANCE』に収録された「愛撫」である。この楽曲は有線チャートで3位にランクインするなどじわじわと人気を拡大し、その翌年の94年3月にシングルカットされるに至っている。その意味でこの楽曲は小室哲哉がプロデューサーとして一世を風靡する直前の時期における隠れた名曲であると言うこともできるだろう。

この「愛撫」は、大きく[Aメロ][Bメロ][Cメロ][サビ]という4つのパートから構成されている。そして[Aメロ]のキーは「A♭」、[Bメロ]のキーは「B♭」、そして[Cメロ]と[サビ]のキーは「B」を基本としている。この中で非常に特徴的と思われる点は[Aメロ][Bメロ][サビ]の3箇所においてあの|Am|F|G|C|という小室哲哉の代名詞的な循環コードが前述のような転調のもとで繰り返し現れていることだろう。つまりこの楽曲の8割近くは、あの「Get Wild」のサビにおけるコード進行とそのバリエーションによって成り立っている。そしてこの楽曲にある種の魅惑的な中毒性を刻み込んでいるのが[Cメロ]における以下のようなコード進行だ。
|EM7|EM7|D♯m7|F♯m7 G♯7|C♯m7 BonD♯|E BonD♯|C♯m7 BonD♯|E F♯|
これを山下邦彦の『楕円とガイコツ』にならい「移動ド」的に「C」へ移調すると次のように表すことができるだろう。
|FM7|FM7|Em7|Gm7 A7|Dm7 ConE|F ConE|Dm7 ConE|F G|
ここでは[Cメロ]の1小節目と3小節目において現れる「Lonely Night」というフレーズを構成する「ミ」と「レ」の2つの音が「FM7(ファ‐ラ‐ド‐ミ)」と「Em7(ミ‐ソ‐シ‐レ)」という和音とのぶつかり合いにおいて心地よい緊張感を作り出している。そして4小節目における「瞬いて消える」(あるいは「寄せて返すだけ」)というフレーズのもとでは「Gm7(ソ‐♭シ‐レ‐ファ)」から「A7(ラ‐♯ド‐ミ‐ソ)」への流れの中で調外の「♭シ」「♯ド」が導入されるとともに|ミファソソ|ソラファミ|というメロディラインとのスリリングな緊張関係を形成する中で、まさに“愛撫”にも似た刹那的な高揚感を生み出すことに成功している(特に「Gm7(ソ‐♭シ‐レ‐ファ)」とメロディ冒頭の「ミ」が13thの響きを作り出す瞬間はこの楽曲のハイライトと言えるだろう)。
さらに2コーラス目の[サビ]から[間奏]([Cメロ]のバッキングをベースにしている)へ移行する際には、これも小室哲哉の代名詞的な手法である半音上がる転調が用いられている。ということはつまり、2コーラス目以降の[Bメロ]→[Cメロ][サビ]→[間奏][Cメロ][サビ]という一連の流れにおいては、パートが切り替わるごとにキーが「B♭」→「B」→「C」と半音ずつ上がっていくことがわかる。こうした半音転調の“進行感”がもたらすめくるめく官能性もこの楽曲を極めて中毒的なものとする要因の一つになっていると言えるだろう。
一方、この楽曲のアレンジに目を向けてみれば、その手弾き感溢れるボイスサンプルやドラムフィルの扱いに小室哲哉ならではの“指先のグルーヴ”すなわち“TKの署名”を見つけ出すことができる。そしてこの数値化不能な“ゆらぎ”こそが、この楽曲に交換不能な音楽的力動を刻み込んでもいる。
小室哲哉による楽曲はおそらくその唐突に感じられる転調も含めて驚くほどロジカルに構成されている。そしてそのアレンジはおそらくそのハードウェアシンセサイザーの多用も含めて驚くほどフィジカルに構成されている。この“ロジカル”と“フィジカル”の奇妙な共存こそが小室哲哉における音楽的魅力の源泉となっていると要約することもできるだろう。

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今回の試みは“大衆による大衆音楽のアナリーゼ”すなわち“ポップアナリーゼ”のささやかな実践でもある。さて、この「TKスタディーズ」は次回に続く…!?

2011年ベストディスク10+

2011年に聴いた新譜の中から10枚のアルバムをセレクトしてみました。その基準は「聴くたびにどれだけ心が動いたか」という点にあります。したがってその内容は私的で一貫性のない雑多なものとなっていますが、もし今年聴き逃してしまっていた“moving”な一枚を再発見する機会になったとすればとてもうれしく思います。それではどうぞ!


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[10] Tycho 『Dive』

DIVE

DIVE

 本盤との出会いはどこか、90年代初頭のワープ・レコーズによる「AIシリーズ」との出会いを想起させるものがある。それはつまり、エレクトロニック・ミュージックにおける新たな潮流が今まさに生まれつつあることに対する驚きと喜びである。音楽的にも音色的にも次第に複雑化する傾向にある現在のIDM周辺の楽曲にあって、本盤においてTychoが提示した極めてシンプルな楽曲たちは、ともすると些か無防備にすら感じられる。しかし、タイトル曲「Dive」においてわかりやすいかたちで現れているような音楽的特徴、すなわち「微妙にピッチの揺らいだシンセサイザーの持続音」+「エレクトロを通過したミニマルかつストレートなビート」+「その上を自由に跳ね回る透明感溢れるギター」が織りなす独特のうねりは、ある種の発明的な酩酊感を生み出すことに成功している。本盤が投じた一石が今後どのような波紋を描き広がっていくのか、その行方を静かに見守っていきたい。


[9] Cradle Orchestra 『ReConstruction Series』

リコンストラクション・シリーズ

リコンストラクション・シリーズ

 DJ JIMIHENDRIXXX(渋谷慶一郎)によるリミックスが目当てで購入したものの、その他の楽曲も予想以上に素晴らしく、今年の秋から冬にかけて繰り返し聴き続けていたアルバムの一つ。本盤の特徴としては、収録曲の多くが原曲以上に「調性感が増している」という点を挙げることができるだろう。つまりいくつかの楽曲においては、従来のリミックスのように、ある「楽曲A」を素材とした一つのバリエーションとして「楽曲A'」が提示されるというよりは、ある「楽曲A」を一つのバリエーションとして捏造するかのような架空のオリジナル「楽曲a」として提示されるといった複雑な操作がなされているような印象すら受けてしまう。“リミックス”と“オリジナル”の境界を曖昧にし不思議な反転を引き起こす“リコンストラクション”。そして、DJ JIMIHENDRIXXXによるリミックスはといえば、その圧倒的な密度の収束により、そうした反転さえも無効化してしまうほどの異彩を放つナンバーに仕上がっている。


[8] supercellToday Is A Beautiful Day

Today Is A Beautiful Day

Today Is A Beautiful Day

 本盤を耳にすれば、その収録曲の多くが「アニメ」「アイドル」「ヴィジュアル系」といったオタク文化周辺と密接な関わりを持つ楽曲たちを参照項としつつ、そこから抽出された高純度の中毒的要素の組み合わせによって成り立っていることに気づくだろう。そしてこうしたクリシェの精妙な配置を極限まで追求することによってこそ、本盤は逆説的にある種の交換不能な強度を獲得することに成功している。ギターを中心としたロックに軸足を置きつつ、そこにはピアノやストリングス、そしてブレイクビーツまでもが聴き手の脊髄反射的な感動を引き起こす“お約束”として何の躊躇もなく次々と重ね合わされる。その過剰な音像は歌詞に描かれたストーリーと極めて高いシンクロ率を保ちつつ、延々と結末を先送りしながらいくつもの迂回を経て最終的なカタルシスへと突き進む。その様はまさに「まんが・アニメ的リアリズムに基づいた奇形的なプログレッシブ・ロック」と要約することも可能だろう。


[7] Yutaka Sado + Kazue Sawai 『Point And Surface

点と面-Ryuichi Sakamoto presents : Sonority of japan

点と面-Ryuichi Sakamoto presents : Sonority of japan

 本盤に収録された『箏とオーケストラのための協奏曲』は、グート時代にリリースされた『El Mar Mediterrani』や『DISCORD』などの楽曲の流れに属する大編成の作品である。「still」「return」「firmament」「autumn」と題された4つの楽章は、それぞれ「冬」「春」「夏」「秋」の移ろいゆく「四季」と対応しており、それらは同時に「誕生」から「死」に至る「人間の生」とも重ね合わされている。その限りなく透明な響きの連なりからは、ジョン・ケージ武満徹スティーヴ・ライヒといった様々な固有名が連想されるが、しかしその一方でそうした連想が何の意味も持たないことに気づかされる。おそらくこの楽曲の最も重要なリファレンスは99年に発表されたあのオペラ『LIFE』だ。20世紀の様々な音楽様式が比類なき精度でシミュレートされた同作から“skmtの署名”のみを慎重な手つきで抽出し再結晶化させた作品、それがこの『箏とオーケストラのための協奏曲』だろう。そしてここには『summvs』や『flumina』において追求されていた響きさえもすでに含み込まれているように感じられる。


[6] Hayley Westenra + Ennio Morricone 『Paradiso』

Paradiso

Paradiso

 クレジットに燦然と輝く“Composed, orchestrated and conducted by Ennio Morricone”の文字。この点にこそあの映画音楽界の巨匠エンニオ・モリコーネ(83歳)の本気度の高さが端的に現れている。ヘイリーとモリコーネの出会いは03年のアルバム『Pure』に収録された「My Heart and I」に遡るが、極度に均整の取れた倍音構成を持つヘイリーの澄み切った歌声と 長いキャリアの中で途切れることなく紡ぎ出されてきたモリコーネ黄金比的な旋律との出会いは、多くのリスナーにとってその続きを期待せずにはいられない仕上がりとなった。それから8年の歳月を経て結実した本盤を耳にすれば、あのあまりにも有名なモリコーネの旋律たちが、新たな“音色”や“響き”の探求とともにこの上なく瑞々しい生命力を獲得しつつアップグレードされていることに鮮烈な驚きを感じ取ることができる。そしてヘイリーこそが「21世紀のエッダ・デル・オルソ」であり「モリコーネの最後の歌姫」あることが確信されるだろう。


[5] Takagi Masakatsu 『Nijiko』

Nijiko

Nijiko

 2011年4月24日。ツイッターのTLを流れゆく言葉。「『残したいあなたの声』送って下さい。素敵なプロジェクトに自由に使わせて頂きます!」 ポストの主はあの高木正勝。私はすぐに子どもたちの声─笑い声やハミングや恐竜の鳴き真似─をいくつか録音しメールで送信した。そのようにして集められた無数の声の断片と高木正勝による自由奔放なピアノの共演、それがこの『Nijiko』である。もしこの曲がポジティブな感情に満ち溢れているように感じられるとすれば、それは「残したいあなたの声」というディレクションによるところが大きいだろう。ここではまるで星が生まれる瞬間のように喜びや希望がひしめき合い、虹色のかけらを散乱させながら美しい弧を描いている。これまで世界中を旅しながら数多くの“音”や“映像”を収集し続けてきた高木正勝が、そのフィールドをSNSに置き換えたという試みそのものも非常に興味深いが、何よりこの愛おしい瞬間が詰め込まれた一曲が2011年のよき思い出の一つとなっている。


[4] Keiichiro Shibuya 『ATAK000+』

ATAK000+ケイイチロウ・シブヤ

ATAK000+ケイイチロウ・シブヤ

 04年にリリースされた『ATAK000』のリイシューである本盤は、DSDアップコンバートによるリマスタリングを経てその本来的なポテンシャルを露わにした。極めて解像度の高い音の粒子が途方もない厳密さのもとでコントロールされることによって生み出された音像は、まるで蝸牛の中にある有毛細胞の一つ一つをピンポイントで刺激するかのようなミクロレベルでの快楽性を引き起こす。そのロジカルかつフィジカルな光速の中毒性は、ある部分においてcyclo.『id』やAlva Noto『univrs』といったアルバムにおける先進的な試みさえもすでに先取りしていた感がある。さらに今回新たに追加された「1'11+」「4'33+」の二曲に至っては「おわりの音楽のはじまり」を予感させるかのような革新性に満ちた音楽形式が恐るべき完成度のもとで提示されてもいる。その意味で本盤はまさに電子音響/電子音楽のアルファにしてオメガであると言っても過言ではない。そしてCDというフォーマットで手に入れておきたい数少ない音源の一つでもある。


[3] Tetsuya Komuro 『Digitalian is eating breakfast 2』

Digitalian is eating breakfast 2

Digitalian is eating breakfast 2

 2010年は編曲家としての小室哲哉が封印されていた年でもあった。小室哲哉はすでに最新の音楽制作環境からは取り残されてしまったのではないかという不安。しかし本盤のリリースはそれらがただの杞憂であったことを十分すぎるほどに証明してくれた。小室哲哉はまるで城砦のように積み上げられたハードウェアシンセサイザーに囲まれて私たちのもとへ帰ってきたのだ。その一見“前時代的”にも映る音楽制作環境から生み出される音の一つ一つには“TKの署名”が深く刻み込まれている。それはつまりあの小室哲哉の指先がシンセサイザーの鍵盤やつまみに物理的に接触することによって紡ぎ出される唯一無二の音楽的力動であると要約することができるだろう。シンプルながら心に響くメロディ、微細なゆらぎを含んだグルーヴ、そして懐かしくも未来的な音色たち。ここには「まだ20世紀でやり残していたこと、今やるべきこと、そして今後に書き留めていたいこと」が“音楽への限りない愛情”とともにたしかに詰め込まれている。


[2] bajune tobeta + evala 『white sonorant』

white sonorant

white sonorant

 ここ半世紀ほどを振り返ってみると、“ピアノ”と“電子音”とをいかに美しい音楽/音響として融合させるかという試みが様々なフィールドにおいて連綿と繰り返されてきたとは言えないだろうか。それはまるで“フェルマーの最終定理”のように音楽界に残された難問の一つとして数多くのアーティストたちを悩ませ続けてきた。そして本盤『white sonorant』は、その“ピアノ”と“電子音”の融合という難問に対して一つの美しい解答を提示したと言えるだろう。音楽的であることをためらわないピアノと先鋭的であることをためらわない電子音響との出会い。“優美さ”と“野蛮さ”という相反する要素が複雑な経路を経て結びつけられることによって生成されたある種の“官能性”。それはどこか激しい電位差のもとで明滅する火花のように儚く、遠い日の初恋の記憶にも似た淡い切なさをも含んでいる。これほどまでにカッティングエッジな音像を保持しつつこれほどまでに聴き手を選ばないポピュラリティを獲得したアルバムを私は知らない。


[1] Haruomi Hosono 『HoSoNoVa』

HoSoNoVa

HoSoNoVa

 73年にリリースされたソロアルバム『HOSONO HOUSE』に端を発する細野晴臣による「音の響き」の探求は、フォーク、ロック、テクノ、アンビエントエレクトロニカ、カントリーといった様々なジャンルを“壁抜け”しながら半ば必然的に『HoSoNoVa』へとたどり着いた。おそらくここには、1940年代から2010年代までの、つまりは細野晴臣自身がその半生の中で体感してきたであろう音楽/音響の粋が極めて高い純度で結晶している。したがって私は、本盤についてこれ以上何かを語る言葉を持たない。この上なく素晴らしい楽曲が、この上なく素晴らしい演奏により、この上なく素晴らしい音質で録音されている。ただそれだけだ。そして今後も、その楽曲の美しさや、演奏の巧みさや、音色の豊かさに驚きと喜びを感じながら、心安らぐ波動に満ち溢れた本盤を聴き続けていくだろう。そして、もし何光年も離れた星への孤独な旅に出かけることになったとしたら、このアルバムをこっそり宇宙船に詰め込もう…そんな空想を思い描いてしまう。

Get Wild - TKATAK mix

 先日の渋谷慶一郎さんによるツイート「今度はTMネットワークのDVDがかかってます」「ビデオアートぽいな」「次はGET WILDきた」「うた抜くとADHぽいなw」を受け、実際にTMネットワークの「Get Wild」とADHの実質的なテーマ曲となっている「4'33+」(『ATAK000+』収録)を重ね合わせてみたところ、思いのほかぴたりとはまりこんだため、YouTubeにアップしてみました。架空の脳内妄想ユニットTKATAKによる「Get Wild - TKATAK mix」をぜひお楽しみください(^_^;

keiichiroshibuy語録 vol.003

2011年6月に東京芸術大学で行われた渋谷慶一郎さんによる特別講義。その模様を文字に起こしてお伝えする第3弾。いよいよ最終回です。今回は「質疑応答」のパートを中心に取り上げますが、とても充実した内容で、最終的には結構な字数になってしまいました。そしてそこには、思わず「作曲」したくなるような言葉たちが無数に散りばめられています。当初は、「講義」ではなく「談話」だといったことも言われていましたが、渋谷さんの発した言葉だけをつなげていくと、不思議と一貫した論旨が浮かび上がり、形式的には「談話」であっても、内容的には紛れもない「講義」であったことに気づかされます。それでは、どうぞ!
(この特別講義のUstアーカイブはこちらで視聴できます。→http://www.ustream.tv/recorded/15110719

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●油絵科の学生で作曲に興味があるのですが、楽器ができないのでアドバイスをください。
 絵とは関係なく? 僕の嫌いなアクションペインティングとかではなくて? で、音楽を作るなら、それはコンピュータしかないんじゃないの。楽器できなくて、これから始めてというと。ぼくが大学にいたころは、美術の学生がタブラとか叩いていて…大嫌いだったんだけどさ(笑)。ああいうのも今はないでしょ? まあ、コンピュータだったらすぐに始められるし、あとは絵画のロジックとか自分の絵画でやっているデータとか何か結び付けてどうとでもできるし。まあ、音楽は結果的に面白ければいいんだから、やっている人も含めて。やっている様子が面白く伝わって、その音楽も少し面白く聴こえれば成立することだから、それでやればいいんじゃないかな。

●邦楽や雅楽に見られる再帰的な展開/デジタルやノイズも含めた音楽の新たな形式の可能性についてどうお考えですか?
 僕は大学にいたときに、雅楽にすごくはまって、雅楽の楽譜の書き方を勉強して、縦に漢字で笙の曲を書いていた時期もあったくらい。あと、龍笛の新しい書き方を高橋悠治さんのところでちょっと習って、自分なりに改良して、指の押さえ方を書いてその間に揺らし方の線を書いたりとか、というのをやっていたくらいはまっていた時期もあって…で、西洋的に解釈すると、一番近いのは「variations」、つまり「変奏曲」という形式だと思うんですよ。何かもとの節があって、それが変化していくというのが、邦楽とか雅楽でも一般的だと思うんだけど、すごく大雑把に言って。それは変奏ということで言うと、僕が作っている音楽ってほとんど方法としては変奏曲なんですよ。最初の10秒作って、次に作るのはその次の10秒だから…どんどん建て増し住宅じゃないけど、増えていくやり方で、ただもうちょっと大枠があって、その再帰性不定期に訪れるみたいなやり方というのはあるなと思っています。だから、形式を考えないといけないと言っていたのは、完全におぼえられないような音楽になってしまうと…おぼえられる音楽って、おぼえたあとにその人が頭の中で組み替えるじゃないですか。ちょっと替え歌というか、何回も思い出して、そのときの思い出した状況とか気持ちによって音楽が違ったりするから、そこまで考えると、僕はおぼえられる音楽の方が面白いと思うんですよ。で、それは別にメロディじゃなくてもいい。何か音一つでもいいんだけど、ある記憶に直接アディクトさせた方が面白いと思っています。ただ、形式というのは、おぼえやすい形式というのはもちろんあるんだけど、もうちょっと余地はあると思っていて、この恐らく終わりに向かっているであろう世界の中で、もっと面白い…終わりに向かうということをもっと増幅させてもいいし、終わりに向かうということをもっと変形させてもいいし、という形式を作って、その中におぼえられるフラグメントがあるということは何かできるんじゃないかと思っていて、そのときにもしかしたら、また邦楽とかアジアの音楽を勉強し直すのかなと思っています。
 ただやっぱり、受容のされ方というのは、すごく社会的なコードと密接ですよね。だから、ガムランとかケチャみたいな形式のコンサートをやっても、日本の中では民族博覧会みたいになる可能性があるなと思っていて、たとえば、バイレファンキという音楽があるんですよ。それはブラジルのゲットーミュージックなんだけど、安いドラムマシンと、声と、あとよく入っているのが警察のサイレンとかピストルの音で、歌詞は大体、警察を揶揄するような内容になっていて、でもちょっとかわいいダンスミュージックなんですよ。で、それで踊っている。僕は結構好きで、いろいろ集めて聴いているんだけど、何かそれはその社会から生まれてきて、その社会に対してアゲインストするときに、直接アゲインストするのではなく、もうちょっとサスティナブルに揶揄しながらも、でも自分たちは楽しいということが共存しているから、何か民族音楽とか伝統音楽をそのまま持ってきてやるよりも有効だなと思っているんですね。で、この間、「ATAK Dance Hall」を渋谷でやったときに、映像とやってくれという話があって…僕は今、あまり前もっていろんなことを考える時間がないから、直線でババッと決めるんですよ。で、映像の打ち合わせをその日にしていて、オープニングの映像をとにかく爆発しているような…3号機が爆発しているような映像がないか探してくれ、なるべく激しく爆発していて、炉が落ちているような感じのものをいっぱい用意してくれと言っていたんだけど…それもあとから自己分析してわかったんだけど、何か祈ろうとかいうノリは好きではないんですよね。「pray」とか言うけれど、何か外国が日本に対して言うのはわかるけど、それはすごく対象として見てしまっている言葉なんだよね、普通に考えて。だから「pray」どころではなくて、この状況に対して、何かめそめそするなら引っ越すしかないと思うわけ。でも、「ATAK Dance Hall」とかやっているわけじゃない。そのときにイメージがあったのは、昔に見たイスラエルのデモで、すごくミニマルな反復があって、あれは何ていうんだろう…音楽で言うと、トランスじゃないんだけどすごくテンションが高くて、もうガバみたいな反復で、狂ったようにアゲインストしているんだけど、ああいう、終わりに向かうなら派手に向かおうぜみたいなことが必要なんじゃないのと思って…ということで考えると、いわゆるダンスミュージックでお決まりの「タカタカタカタカ、ズッチーズッチー」みたいなさ、笑っちゃうわけじゃない、もはや。そういうのではない、ある高揚とか時間の作り方が可能なんじゃないかなと思っていて、だから、僕にとってはデジタルでやるとかクラブでやるということが、そういうある集団的なコードに対してインパクトを受けて、音楽が変わっていくということになるのかなという気がしています。

●作曲するときにはコードとメロディ、どちらから作りますか?
 同時かな。コードとかメロディがあるものについては同時に出てくるだけです。

●コンピューター音楽が生の音楽に勝っている部分はどこだと思いますか?
 一人でできるということと、あとは絶対に人間じゃできないような音の速い動き…速度とか密度とか、ということはできるんじゃないかな。それは賛否両論あるけど、とりあえずできるということは確かだと思う。

●自分の活動の方向性が決まったと思うのはいつごろですか?
 方向性? いつも決まってないよ。住所不定みたいなものでさ(笑)。どうなるのか自分でもわからない。

●デジタルとアナログの融合を意識して作品を作ることはありますか?
 いや、そういうことは全然考えないかな…。ただ、常に配分よく依頼が来るんですよね。ピアノの仕事も来れば、ポップスみたいなものも来るし、実験的なものも来るし。

●作曲の定義/音楽の定義のようなものはあるのでしょうか?
 いやあ…でも、そんなこと考えている暇があったら、作曲した方がいいから…。え? 「私が作曲だ」って?ゴダールみたいじゃない、「私が映画だ」みたいな(笑)。そんなこと思ってないけど…そんな暇ないし、今日だって、締め切りとかすごく押して来てるわけだし。だから、全然そういうことを考える必要も感じないし。そういうことは基本的には暇なやつがやることでしょ。だからそういう議論とかシンポジウムは、メンツが面白ければ行くと思うけど、たぶん荒らして帰ると思うよ(笑)。だって本当に、「作る時間」というのは、どんどん刻々となくなるわけ。年を取るといろんなことに巻き込まれて。だからそんなこと考えているなら、少しでも音楽を作りたいよね。昔は、あてどもなくコンピュータをループさせて、この音いいなあとかやっていたわけだけど、そういう時間は全然取れなくなったから…。そのことに対するストレスはすごく強いから、そんな音楽とは何かとかメディアアートがどうなっていくかなんてことを話している暇があったら、作曲したいです。
 第三項音楽については、すごく創作の源泉になっていて…たとえば立体音響で僕がやりたがるのは、デジタルでピアノをバーンって弾いて、自分の音が返ってくるわけじゃない。で、いいピアノで自分が好きな曲を弾いたりしたときにワーンと音楽が立ち上がってきたときと同じインパクトをデジタルで得ようと思ったら、もう、そういう空間を含めて作曲するしかないんだよね。2チャンネルの作品で、本当に驚くみたいなことというは結構難しくて、その動かすときの配置とか、ある種の不定形さとか、ある種の立体性というのは、全部第三項音楽がリソースだから、継続中としか言いようがないんだよね。
 というか、今は言葉でそういうことが伝わりにくい時代になっているから、伝りにくいときに「俺の話を聞け!」とかって嫌われるじゃん、普通に(笑)。そういうことをやるよりは、違うことをやって、また一周戻ってきて、伝わるときにやった方がいいと思う。
 
●好きな音はどんな音ですか?
 雨の音はすごく好きだし…何だろうな…何か視覚的にもそうだし、音でもそうなんだけど、僕は接写的な…たとえば僕は風景のバーンと開けたものよりも、マテリアルがすごく近くて、その中に非常に組み入ったものが見えるみたいなものの方が好きで、音もディレイが効いて「ブァーン」というよりは、「ザラッ」とか「ザーッ」という中にいろんなものを聴くという方が好きかな。
 蝉は大嫌い。僕は虫の音がすごく嫌いだし。だから、屋外の音が入ってくる家が嫌でさ、住めない。雨がいいなと思ったのは、大人への第一歩で、ごく最近。だから、窓越しに聴こえる雨の音がいいなあと思ったのは、本当にここ1、2年くらいかな。昔は、無音で、自分のたてる音以外何もしない方がいいし、あと僕は、家にいるときは大体音楽をかけているんだけど、それはいろんな音が気になっちゃうから、キャンセルするためにかける。
 家でかけているのは、僕はクラシックがほとんどで、あと、最近はドアーズとか聴くけど(笑)、ロックも聴いているし、フェラ・クティの息子がすごくいいアルバムを作っていて、セウン・クティという次男の人、ブライアン・イーノのプロデュースの、それもよく聴いているし、いろいろ聴いているんだけど、でも、音楽が横からもれてきたりするのはすごく嫌いでさ…隣の人がテクノとかガンガンかけていて、ツイッターで、隣の人がすごくうるさいから殺しに行こうかなってツイートしたら、音が止まったんだよね(笑)。で、これ見られているんだと思って、すごくびびったんだけど(笑)。
 でも…音楽を作っているときには音楽を聴けないから、音楽を聴ける状態というのは僕にとってはそんなに集中度が高くない時間で、メールを書いているとか料理を作っているとか、そういうときだから。シャワー浴びながら、ベートーベン第6番、爆音でとか(笑)。
 4つ打ちとかはあまり聴かないかもしれない。というか、変じゃない、家で4つ打ちとか聴いていると。「パン」とかってクラップが鳴ったりするとさ。クラブじゃないのに。だからこれ、前に雑誌で書いたんだけど、ダンスミュージックからしか、ほぼ新しい音楽は生まれないのに、ダンスミュージックは、基本的に家で聴くと変なことになっているから、そうするとセールスと結びつかないじゃない、クラブだけのものになるから。新しい音楽がディベロップされるのがクラブだけになるんだけど、でも、クラブで踊らせる機能というのは、クラブのスピーカがリズムマシンにチューニングされているから、そこにフォーカスしているからそういう音楽になるじゃない。だから保守的なままじゃない。だから悪循環なんだよね、全部。新しい音楽というのは、リスニングだけだったらそんなに大きいシェアを持たないけど、ダンスミュージックとかすごく大きいところでやれるものはシェアを持ちえるのに、踊るためにはこういうものという形式が決まってしまっているから新しくなりようがないみたいなさ。90年代以降、顕著だと思うけど。
 だから、音響は以降でしょ。新しいものがクラブからだけじゃなく生まれてきたのが。僕もATAKを始めたころに、マニアック・ラブというハードテクノのお店で、2ヶ月に1回くらいレギュラーとかやっていたわけ。で、レギュラーイベントとかって、どんどん音がハードになっていくんだよね。テクノっぽくなっていくからさ。やっぱりそれも、コードというかリテラシーでしょ。

純正律平均律のように、わかる人にはわかるといった音楽をどう思いますか?
 さんざんやっていたからね、そういうこと。ただ純正律は、僕も昔、コンサートに行ったときに思ったけど、すごく調律としてセンシティブだから、照明の熱で狂ってくるんだよね。だから曲が10分とか20分とかあるとさ、どんどん狂ってくるわけ、曲の中で。だから気持ち悪くてさ。だからこれは流行らないだろうなと思った。
 第三項音楽みたいなものは…わかるということと面白いということはまた別じゃない。あの…何だかよくわからないけど面白い人っているじゃない。僕はよく言われるんだけど(笑)。だから、そういうふうに全部わかってもらう必要はないかなという気はします。だから理解されたいというのがなさすぎてちょっと困っているというか、自分が楽しければいいみたいなところがあるから、もうちょっと大人になんないといけないなあというふうにしているんです。ヤバイだけは、もうあまり面白くないないかな。

●聴く人がどういう気持ちになるのか、作るときに打算したりするのですか?
 作るときは打算しない。というか、さっきの純正律とかもそうなんだけど…何でもいいんだよね。純正律でもいいし、シンセサイザーでもいいし、ノイズでもピアノでもいいんだけど、「ポン」とか「ダン」と鳴ったときに、時間が生まれるわけじゃない。それがいいというのはある種の奇跡だと思う。奇跡が起きたときに、それを壊さないように作っていくのが音楽だと思っていて、だからその…平均律がどうとか周波数律がどうとか、そういうのは本当はどうでもよくて、それがずっと形として続いていって、ある時間が終わればいいと思っているから、打算する余裕はそんなにない。でも、たとえば「SPEC」の音楽を作ってくださいというときに、「ザーッ」とかいっていたらさ、話はそれで終わるでしょ。馬鹿だよね、単に(笑)。それは、よく言うんだけど、人と会ってさ、たとえばラーメン食べたいなあと思っていたときに、女の子がすごくお洒落してきてさ、でも自分はラーメン食べたいからって押し通さないじゃん。じゃあちょっと違うところに行こうとなる。それと同じようなもので、前提というのは。それは僕はすごく苦になることではないので。

●作曲をするきっかけになった体験は何ですか?
 あのね…ネイティブアメリカンに育てられて…というのは嘘なんだけど(笑)。何だろうな…ピアノの先生がきれいだったんだよね。一番最初は。それで何となく続いていって…で、作曲と決めたのは、僕は中学のときに、父親が癌にかかっていることを宣告されて、俺はもうすぐ死ぬからお前何やるか決めろと言われたわけ。で、たとえば、お前が歯医者になりたいんだったら、俺は金を貯めなくちゃいけないし、それによっては、俺が死ぬまでの生き方が変わってくるから、何やるかあと1ヶ月で決めろと言われて、「えっ!?」となったんだけど、美術館に行ったり、本屋に行ったり、コンサートに行ったりとかして、一番面白かったのが作曲だったから、それで決まったの。芸大に入れば、いろんな資料とかもあるし、教えてくれる人もたくさんいるんだろうから、一番それが早いんだろうなって。

●変則的な構造から人が口ずさめるような中毒性を生み出すことは可能でしょうか?
 そこなんだよね。すごく僕が今興味があるのは。変則的なものが変則的に受け止められるというのは、複雑なものが複雑に受け止められるということじゃない。当たり前じゃん、それは。だから、すごく複雑なんだけどおぼえられちゃうとか、そういうものができるんじゃないかなという気はしている。
 たとえばフロアで、常に変則的だと、変な感じになるじゃん、場の空気が。で、それはそんなに面白くないから、ああいう場としてはもっと周期があるんだけど、それが変わっていくということになると思うんだけど、曲単位って3分とか5分とかだし、たぶん今の状況だと5分の曲って長すぎると思うんだよね。3分台とか2分台で十分だなと思っていて、そうするとその中でいろんなことが起きていても…たとえば、ジェイムス・ブレイクなんて、すべてが面白いとは思わないけど、あれは歌だけずっとループしていて、バックトラックだけ変化し続けたりするじゃない。それで突然終わったりとかするのが、ポップミュージックとして受け止められたりすることがあるし、もっと形式というのを人為的にではなく、シミュレーティブに作って、ただ中身に入っている音はキャッチーというかアディクトしやすくて、というのはできるんじゃないかなという気はしている。

●渋谷さんはどんな機材を使っていますか?
 MacBook proがあって、オーディオインターフェイスがFireface400というやつで、僕は満足していないんだけど、で、ミキサーは普通のMackieだし、Prophet-5があって 、あとは、ORGON SYSTEMという弁当箱みたいな、たぶん200台くらいしか使われていないアナログシンセがあって、それもときどき使うけど、ずっとそんな感じかな。あと昨日、KRONOSというのが届いたけど、新しい機材というのにあまり興味がないから、そんなに変わらないよ、何年単位では。KRONOSは久々に面白いと思った。ああいうワークステーション型のシンセでそう思うのは僕にはすごく珍しいことだから、ちょっと使い込んでみようと思ってやっているけど。

●音楽で泣いたことはありますか?
 たくさんありますよ、それは。だって、感情を揺るがす音楽を否定している人って頭おかしいでしょ、どう考えたって(笑)。全然否定しないというか、弾いていても泣いちゃうこともあるし。

●頭の中にある音が一番きれいとのことでしたが、それを表現するための方法をもっと知りたいです。
 僕は全然、iPodとかそういうのを聴かないの。大体何もしていないときに音楽がぼんやりある感じなんです。たとえば、ツイッターとかも見れないような環境で何もしてない状況に閉じ込められると、大体ふーっと何か出てくる。それをメモするときもあるし、メモしないときもあるんだけど…それがあるときというのはよい状態なんだけど、それをたとえばピアノに置き換えるときというのは…置き換えたときに壊れちゃうことがある。逃げちゃうというか。だからそれを逃がさないように、そっと…恐る恐る、2音とか指で触るような感じで追っていって、あ、こっちだこっちだ、つかまえたみたいな感じに僕もなる。だから、よく想像することは、誰もいなくて、何もなくて、音楽というのもなくて、この今最初に落とす音というのが、「最初の音」だったらどうなんだろうと想像して作り始めると、結構すぐにささっとできるかな。ピアノに限らずコンピュータでもそうです。

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「文字起こし」というのは単純な作業であり、時間さえあれば誰でもできることだと思いますが、その中で得られた「着想」や「語彙」というのは、今後、音楽を聴き、それらを言葉で語っていく際に、きっと大きなプラスになるだろうという予感があります。Ustアーカイブを視聴した際にはうっかり聞き流してしまっていた中にもキラリと光る言葉たちを再発見してもらえたとしたら、そしてそこから、音楽に関係することであれ、音楽に関係しないことであれ、何かしら前向きなインスピレーションを受け取ってもらうことができたとしたら、とてもうれしく思います!

keiichiroshibuy語録 vol.002

2011年6月に東京芸術大学で行われた渋谷慶一郎さんによる特別講義。その模様を文字に起こしてお伝えする第2弾です。今回紹介するパートでは、「3.11以降の音楽」について非常に鋭い論点が提示されており、まさにこの特別講義全体のハイライトとなっています。渋谷さんが様々なメディアで言及している楽曲たちと交差させながら、あるいは、渋谷さん自身の今後の方向性に思いを巡らせながら読み込むことで、きっとたくさんのインスピレーションを得ることができるのではないでしょうか。それでは、どうぞ!
(この特別講義のUstアーカイブはこちらで視聴できます。→http://www.ustream.tv/recorded/15110719

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●3.11以降の音楽
 最近、ループしない構造というものに興味があるんですよ。特に3.11以降になって興味があることに気づいたんだけど…ループしない音楽というのは、僕は第三項音楽でやっていたんだけど、ループしないと曲って認識されないから、ノイズになるじゃない、認識としては。で、それだけ続けていると、やっぱり飽きるんだよ。ヤバイっす、という反応しかないから(笑)。で、ヤバイのはいいんだけど、ヤバイのも慣れてくるとヤバくなくなるからさ。
「Massive Life Flow」というインスタレーションをやっていて、公開制作をしていたんですよ。Ustもして、ギャラリーに10日間通って、グランドピアノもコンピュータもシンセサイザーもあって、とにかく僕は、仕事をしているのを見せるだけ。ショーではなくて。だから10分しかいない人は、僕がメールを書いているのを見ただけで帰る可能性もあるわけ。ということをやっていたときに、コンピュータで作っていると、基本的にループするじゃない。たとえば1秒から10秒ってループさせて、その中で変えていったりとか調整したりするわけだよね。で、DSDも持っていったから、ピアノを即興でブワーッと弾いて、全然使えるレベルで録れるから、とにかく何も考えないで弾いて、ちょっとルールが見つかると、そのルールを深めようと思って、また弾いてということを何回もやって、それはすごくしっくりいっていたわけ。で、これは何なのかなとずっと引っかかっていて、今もコンピュータで作業していると、何かしっくりこないものがある。もっと言うと、音レベルでも、ピアノの音とか、自分で弾けるのはピアノだけだからなんだけど、減衰していくじゃない。「トン」というアタックがあって、減衰していくところにいろんな変化があって、最後に消えていくじゃない。で、そこに繰り返しはない。でも、デジタルで作った音は基本的に反復を含んでいるし、反復を含まない構造のものを作っても、作曲するときは反復させているから。
 これは最近復刊された『WIRED』という雑誌にも書いたんだけど、「終わらない日常」という言葉があったでしょ。日常というものが終わらないものとしてあって、音楽というのは絶対に最初と最後がある。それは、構造的にも一番初めの音があって、何百年かかっても一番最後の音があるというのが音楽じゃない。だから、時間軸に区切りをつけるものであるわけで、聴いている方にとってみれば、曲をかけるというのは、1曲終わったら、何となく一休みしてコーヒーを入れようとかさ、「終わらない日常」に対する句読点になっていたわけじゃない。でも、今の日常は…これは終わるよね、放射能とかたくさんあるし。だって最近、頭痛いしさ(笑)。言ってみれば、日常が終わりに向かっているわけだよね。それは何年レベルのことかわからないけど。でも、日常というものが終わらないものだという認識を持っている脳天気な人はあまりいないと思うんだよね。だから、その終わりに向かっていくスリルというか予測不可能性というか緊張感というのは、ちょっと太刀打ちできないものがあるじゃない。だから、「終わらない日常」に対する句読点としての音楽を作る…ある種の箱庭みたいな完成された音楽を作るというときの態度がすごく難しい。というのは、終わりに向かっていっているものに脳天気に句読点を打っても仕方ないじゃない。だから、どんどん変化していってバサッと終わるとか、そういうものはできるんだけど、ある起承転結性みたいなものというのが、全然できなくなってなってしまって、僕はあまりそういうことに影響を受ける人間ではないから、本当にわからなくて、1ヶ月くらい。何でこんなに下手になったんだろうと思っていて、そうしたらあの「Massive Life Flow」のときに、ピアノの即興とか1音だけ録ってずっと響きを聴いてとかやっていたのは、全部そういうことだなあと合致して、ちょっとびっくりしたんだけどね。ただ、僕は、自分が作ったものを何回も家でしみじみ聴いたりはしないから、それがどういうふうに受け止められるかというのはよくわからないんだけど、少なくとも作っているものに関して、繰り返し構造があって、起承転結性があって、何分なりのまとまりがあって、ということに落とし込むことがここ最近すごく大変で、だから、もっと新しい形式を作らないといけないなと思っているんです。
 フォーマットについて言えば、僕はCDに対する懐疑とかアルバムに対する懐疑というのは、あまりないタイプ。だって簡単に言うと、新しいフォーマットも古いフォーマットも両方やればいいだけでしょ。で、新しいフォーマットだけやっていてもさ、新しいフォーマットが好きな人しか聴かないじゃない。そうするとやっぱり、広がらないから…広がらないというのは自分の名前が広がらないというのではなくて、レスポンスに幅がなくなるから、単に両方やればいいと思う。実際、僕は高音質配信を早い段階で始めているし、今もやっているけど、でも、CDのよさというのはあるからね。物を持ちたいみたいな欲求は絶対に人にはあるから。津田大介さんとも話していたんだけど、二人とも配信とかそういうことをよく言っているけど、CDというこの物体にもしかしたら何かあるのかもしれないと。アナログは、僕はそんなに好きではない。いや、音がいいのはよくわかるんだけど、そのエステティックというか美学というか。レコードのジャケットに愛情があるという世代ではないから。レコードのジャケットに愛情がある人がそういうことを言い続けるのはわかるんだけど、何かそこに戻って、アナログを買ったりという趣味はまったくないね。あとは、でかいものが嫌いだし。ATAKでは、アナログでリリースしようと思ったことは1回もないんだよね。アナログの方が音がいいとは僕も思うんだけど、ファイルというか配信はありなんだけど、CDの音がよくないからアナログに戻ろうというのは、携帯で話していて、ちょっと音が悪いから親機でかけ直すと言っているようなものだと思う。で、そんなことはしないじゃん、日常で。だからこれは、進化の過程としてスムーズじゃないの、僕にとって。だって、DSDのファイルの方がアナログよりも音がいいし。だから、「新しい」と「古い」だったら、とりあえず僕は新しい方が好き。
 インスタレーションは面白いと思っていて、頼まれることが結構あって、美術館もあるし、もっと公共的な場所もあるんだけど、音を使わないインスタレーションというのもやろうとしているんです。今やろうとしているというか、思いつきで言っていたのは、公共的な場所ってすごくうるさいじゃない。そこで、大してよくもないスピーカーをいっぱい並べて、何かわけのわからない音を出すということをやっても、かき消されるでしょ。それはあまりよくないなあと思っていて。あとは、音が多すぎるということに対して僕は辟易しているところがあるから。で、何かを見て音楽が浮かぶということがあるじゃない。実際、それが音のデータだったりすることもあるし、そうじゃないアトラクターみたいなものだったりすることもある。だから、見て音楽が感じられるようなものだったら…いや、それは神秘的なものじゃないよ、「あっ!あっ!」とかいうものじゃなくてさ(笑)、音楽的なあるマテリアルだとか、僕が音楽をやる中で通過しているものなんだけど、それを作って、実際にピアノ線が材料だったりするから、少し音はするんだけど、でも、公共的な場所でそんなか細い音に耳を傾けてくださいなんてノリは僕はあまり好きではないから、聴きたい人は聴けばよくて、基本的にはもう造形物というかオブジェみたいなもので、それである音楽的なインスパイアがあったら、前にもよく言っていたけど、頭の中で鳴っている音が一番いいし、ノイズキャンセルされているし、純度が高いから、そういうものは可能性があるなと思っている。やっぱり、音ってスピーカーから出た時点で負けちゃうことが結構あって…たくさんスピーカーを使ってやるインスタレーションも僕のメインの仕事なんだけれど、それとは別に、スピーカーを通さない音とか、音すらないとか、というのも少しずつやり始めている。
 たとえば、すごく広い空間にピアノが1台置いてあって、ポンと弾くとさ、やっぱりいい状態のときは、その音に驚くことがある。でもスピーカというのは、ある種のファクターだから、そこを通るとスピーカーの音がするじゃない。スピーカーが振動しているから。それは当たり前の話なんだけど、ある種の一様さを持ってしまう。だから、点音源というのは少し可能性があるなと思っているんだけど、ミニマルな意味ではなくてね。

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次回は「質疑応答」のパートをアップする予定です。お楽しみに!

keiichiroshibuy語録 vol.001

2011年6月2日に東京芸術大学にて渋谷慶一郎さんによる特別講義が行われました。その模様はUstで中継され、アーカイブ化もされているので、そちら(http://www.ustream.tv/recorded/15110719)を実際にご覧いただくのが一番だと思うのですが、90分近い時間の中で即興的に語られた言葉たちは、非常に魅惑的な論点が幾層にも複雑に絡み合っており、それらをぜひ文字化したいという欲求が抑えきれず、音楽に関係する部分を中心に文字に起こしてみました。今回はその第1弾となります。渋谷さんの語り口をなるべく生かすよう努めましたので、ぜひお楽しみください!

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●芸大時代の学生生活
 曲はすごく書いていましたよ。入るなりすごくたくさん書いて、学内演奏会みたいなものがあって、そこで出さない人もいるのに、僕は2曲くらい出したりとかしていたし、創作意欲の高まりを見せていたりしていたんだけど、中でやっていても仕方ないなと思ったから、大学2年くらいからスタジオミュージシャンみたいなこととかアレンジとかをやったり、学校の外でコンサートをやったりとか、そういう感じでしたね。
 学校的にはそれは全然抑圧されていて、そんなことやっていると業界で干されるよとか言われて。学校には…ナンパ…じゃないや(笑)、最低限しか来ないで…あまり来てなかったかな。僕は大学というものにそんなにコミットする方ではなくて、ある特定の業界にすごく深くコミットするということは、あまりしないようにしていたんですよ。
 大学はぎりぎり卒業できたという感じでした。だから、英語とかも落としそうになって、先生に、こんなことで落として留年なんてして僕の人生を傷つけたら僕は本当に許せないと思う、とか言って脅迫して(笑)。直接部屋に行って、こんな『ダブリン市民』なんてくだらないものを読んでいる時間は僕にはないから頼むから僕の人生のために単位だけくれって、そういう学生でしたよ(笑)。

●コンピュータ音楽との出会い
 今日、作曲科の学生っています? コンピュータって使ってる? 使ってないでしょ。コンピュータは僕のときも使ってなくて、使ってないというかなくて…カモンミュージックとかいうのがあってさ、電子音楽の授業というのを取ったら、それに連れて行かれて、これでカラオケ1曲作ると3万もらえるとか言われて、もう夢も希望もないじゃん(笑)。で、とりあえず、コンピュータを手元に置いておこうかなと思って、自分でサンプラーとか買ってやっていたけど、僕はMIDIのときは全然だめだったから、相性が悪くて。もう本当に、コンピュータって何もできないなあって感じだったね。だから、芸大でコンピュータ音楽やったという経験は全然ないですね。
 98年か99年くらいかな。ちょうどPowerBookのG3が出たころの、ちょうどオーディオがコンピュータの中で生成できるようになってから、ぐぐっとそっちに行ったような。
 たとえば、弦をガーっと弾いたときに、「ド」の音を弾いても「ド」の周りにいっぱい音があるじゃない。ノイズっていうか、ザラっという音もあるし、あと…何か不用意に出ている音もある。音楽はそのすべてが情報として伝わるわけで、MIDIとかシンセサイザーというのは当たり前だけど、最初からそれが付いていない。それがやっぱり僕は、あまり納得がいかないというか、その情報自体を作りたいという気持ちがあって、コンピュータでオーディオを作るというのは、そういうことだから。これだと、今までたとえば弦とかピアノの曲を書いていて、自分の中ではこう弾くと、譜面の中ではこれしか書いてないけど、こう微妙に重なったところにこういう響きが出てというのは、微妙にコントロールして弾くし、人とやるときもそういうふうに言ったりできるじゃない。そういう書けない部分も作れるというのが出てきたのがオーディオ以降で、それが延々と一人でできる。演奏者は性格悪いから疲れたって顔とかするじゃない、わざと(笑)。そういう疲れたという顔もされないし、電源をつけていればずっと起きていてくれるし、本当にずっとやっていたね。
 よく言っていることだけど、ピアノが発明されたとか、すごくエポックなことって音楽史上あるじゃないですか。で、シンセサイザーとかサンプラーというのは、たとえばピアノが発明されたというようなインパクトというのは僕の中ではないだろうなという感じだった。ただ、普通のパーソナルコンピュータの中でオーディオが生成できて組み立てられるというのは、たぶんピアノ以来の発明だなと思って、だからこれはちょっと賭けるに値する出来事だなと思って、しばらくもうそればかりやっていた。

●ピアノへ回帰した理由
『for maria』はすごく大きいんだけど、やっぱり…ちょっとうっすら思うのは、もしかすると10年周期くらいで変わっていくのかなっていう気もする。だから、テン年代…2010年代は、もしかしたらピアノとか、そこに少しコンピュータが入るとか人間の楽器が入るとかが多くなって、2020年くらいからまたコンピュータに戻るという、何か大きな周期なのかなという気もちょっとしている。というのも、ゼロ年代というのはほぼすべてコンピュータで埋まっていたわけだから。
 オーケストラを書いたときにも、言われなければやらないよね。依頼が来なければ絶対やらないと思う。だって面倒くさいし、譜面書くのが。僕は自分で弾くやつはほとんど書いてないしさ。一番究極なのは…「open your eyes」という曲は譜面もないんだよね。だから頭と手でおぼえているだけ。それで弾いている。で、一回、サックスとやるときに初めて譜面を書いたというのもあるし、もう本当に二声というかトップとベースだけ書いてあって、その間は自分で埋めたりというのもあるし、あと、コードネームだけ書いてあるというのもあるし、いろいろですね。
 たとえば、この間、「SPEC」というドラマのサントラをやったんだけど、そのときはピアノの曲を最初に作って、弦楽オーケストラのバージョン作るのにさ、頭では全部できているわけ。でも、譜面を書く時間がない。で、どうしようかと思って、この芸大にもちょっと関わっている松本君がフィナーレ(楽譜作成ソフト)を使えるから、家のピアノのところに来てもらって、2日間か3日間拘束してさ、フィナーレ付きのコンピュータをピアノの横に置いて、じゃあ行くねとか言って、1小節目、第1バイオリン、「デ〜ン♪」で4小節とかさ(笑)。で、わかりましたとか言ってパパッと打っている間に、その下もだいたい見えているから、第2バイオリン、第3バイオリン…と言っていって、全部打ち込んでもらって、ちょっと整理が必要なときに、次のセクションを弾いて、声部配分はこれでいいかとかチェックして…2日くらいで終わったけどね(笑)。
 あと、当たり前だけど、音色を作ってとか言うけれど、ノイズだとドレミがないでしょ。だから、メロディがこうあって、コードがここで一瞬ずれて…というときに、何かこう喚起するものが、グッとくるというよりも、もうちょっとミクロな単位でさ…たとえば「プチッ」という音でグッとくるとか、「ザザッ」という音でグッとくるというのもあるけど、それとあまり変わらないと思うんだよね。このメロディとこのコードが組み合わさったときに…30分の曲とか10分の曲を聴いてトータルで泣きましたというよりは、「コーン」と鳴ったその瞬間に喚起されるわけじゃない、人は。だから、もはや受け取り方は音色で喚起されていると思っていて、そういうことでいうと、その音程の組み合わせの部分というのは、ノイズだけでやっていると全部切り捨てるということになる。で、今まで僕はそういうことをやるときにどうしていたかというと、ピアノを使っていたわけだけど、ピアノ意外で自分で何かできるかというと、シンセサイザーということだから、そこはやろうかなと思っています。
 音色1つ、サウンドファイル1つにレイヤーが入っていて、もうその中に構造もあって、それは10秒かもしれないし1分かもしれないけど、そのオーディオをエディットしてというのではなく、生成したらそれが曲になっているというのは、全然可能性があると思う。それは何年もやりたいことなんだけど、これでも曲なんですというパフォーマンスは実験的なパフォーマンスになるじゃない。そうすると、実験的なパフォーマンスに興味を持つ人だけにジャッジされることになるわけじゃない。で、それはそんなに面白くないと思う。それは本当にオートマティックにできるというのは、よくMAXとかで、ドレミみたいな音がサイン波でオートマティックに生成されるような作品音楽があるじゃない。ああいうのではなくて、本当にオーディオレベルで1曲になってしまうというのは可能性のあることだから、もうちょっと広いところでジャッジされたいなと思っていて、あと、人が何を曲と思うかとか何を音楽と思うかということを、自分が身をもってリサーチしないとわからないわけじゃない。僕は現代音楽も好きだし、ノイズも好きだし、クラシックも好きだし、ポップスも好きだけど、最初に言ったみたいに、どこかにどっぷりではないから、これがポップスだよとかっていうのはわからないわけ。で、これが音楽だよというのも、人がどう思うというのはよくわからないから、もうちょっとフィールドワークしつつ、進めたほうがいいなという感じですね。だから、ピアノソロの人だと思われるのもフィールドワークだし、ラップトップでクラブでやるのもフィールドワークだし、そうするといろんな層の人に会うじゃない。で、受け止められ方が違うから、それを今やっている感じかな。

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次回は「3.11以降の音楽」について大いに語っておられるパートをアップしたいと思いますので、お楽しみに!